東京地方裁判所 昭和34年(ワ)1476号 判決 1963年3月30日
第二一四七号事件原告・第一四七六号事件原告・第五二二四号事件反訴被告 国
訴訟代理人 沖永裕 外三名
第二一四七号事件被告・第一四七六号事件被告・第五二二四号事件反訴原告 野本治平
第一四七六号事件被告・第五二二四号事件反訴原告 江田重蔵
第一四七六号事件被告 野本勢い 外三名
主文
一、昭和三四年(ワ)第一四七六号事件原告国と同事件被告らとの間において、同事件原告国が別紙第一物件目録記載の土地を所有することを確認する。
二、同事件被告野本治平は、同事件原告国に対し、別紙第二物件目録記載の第一ないし第三及び第五ないし第七の土地について昭和二七年一二月一六日東京法務局大森出張所受付第八二二七号所有権保存登記の抹消登記手続をすること。
三、昭和三二年(ワ)第二一四七号事件被告野本治平は同事件原告国に対し金七〇九万八六九〇円及びこれに対する昭和三二年四月三日から右支払い済にいたるまでの年五分の割合による金員を支払うこと。
四、昭和三四年(ワ)第一四七六号事件被告藤原美蔵は、同事件原告国に対し、別紙第二物件目録記載の第一、第四、第五及び第八の土地について昭和三二年一一月九日同庁受付第三三八七五号同日付売買予約に基く所有権移転請求権保全仮登記の抹消登記手続をすること。
五、同事件被告野本勢いは、同事件原告国に対し、別紙第二物件目録記載の第一及び第五の土地について昭和三四年一月二四日同庁受付第一六八二号同日付藤原美蔵の前項の所有権移転請求権譲渡に基く付記登記の抹消登記手続をすること。
六、同事件被告江田重蔵は、同事件原告国に対し、別紙第二物件目録記載の第六及び第七の土地について昭和三〇年九月二九日同庁受付第二三二〇八号同日付抵当権設定契約に基く抵当権設定登記及び昭和三〇年一一月一七日同庁受付第二七九九〇号同年一〇月二九日付代物弁済に基く所有権移転登記の抹消登記手続をすること。
七、同事件被告石川正勝は、同事件原告国に対し、別紙第二物件目録記載の第二の土地について昭和三三年一〇月一七日同庁受付第三一四一一号同日付売買予約に基く所有権移転請求権保全仮登記の抹消登記手続をすること。
八、同事件被告岩崎政義は、同事件原告国に対し、別紙第二物件目録記載の第三の土地について昭和三四年一月一三日同庁受付第七一七号同年同月一二日付売買予約に基く所有権移転請求権保全仮登記の抹消登記手続をすること。
九、同事件及び昭和三二年(ワ)第二一四七号事件原告国のその余の請求並びに反訴原告野本治平及び同江田重蔵の請求を棄却する。
一〇、訴訟費用のうち、昭和三二年(ワ)第二一四七号事件について生じたものはこれを野本治平の負担とし、昭和三四年(ワ)第一四七六号事件について生じたものは訴提起に要した貼用印紙額のうち金一六万九八五〇円を国の負担とし、その余を一〇〇分し、藤原美蔵、岩崎政義及び石川正勝はそれぞれその一を、野本治平、野本勢い及び江田重蔵はその九七を負担することとし、昭和三四年(ワ)第五二二四号事件について生じたものは反訴原告野本治平及び同江田重蔵の負担とする。
一一、この判決は第三項にかぎり仮に執行することができる。
事実
(当事者の求めた裁判)
第一、国の求めた裁判
各本訴につき
一、当事者間において、国が別紙第一物件目録記載の土地を所有することを確認する。
二、野本治平は、別紙第二物件目録記載の各土地に対する昭和二七年一二月一六日東京法務局大森出張所受付第八二二七号所有権保存登記の抹消登記手続をするとともに、国に対し、金七〇九万八六九〇円及びこれに対する。
内金一七三万八一三〇円については昭和二五年四月二八日から、
内金四九万二六九八円については昭和二五年四月二七日から、
内金五〇万九一二〇円については昭和二五年一〇月三一日から、
内金五一万七三三四円については昭和二六年一月二八日から、
内金五一万七三三三円については昭和二六年四月二七日から、
内金一三万一三七九円については昭和二六年八月一日から、
内金一一三万三二〇二円については昭和二六年一〇月三一日から、
内金五六万六六〇一円については昭和二七年一月二〇日から、
内金五六万六六〇一円については昭和二七年五月八日から、
内金一七万六二七六円については昭和二七年七月二六日から、
内金三九万三二五円については昭和二七年八月二八日から、
内金三五万九六九一円については昭和二七年一二月二八日から
それぞれ支払い済にいたるまで年五分の割合による金員を支払うこと。
三、藤原美蔵は、別紙第二物件目録記載の第一、第四、第五及び第八の土地に対する昭和三二年一一月九日同庁受付第三三八七五号登記原因を同日付売買予約とする所有権移転請求権保全仮登記の抹消登記手続をすること。
四、野本勢いは、別紙第二物件目録記載の第一、第四、第五及び第八の土地に対する昭和三四年一月二四日同庁受付第一六八二号登記原因を同日付藤原美蔵の前項の所有権移転請求権譲渡とする付記登記の抹消登記手続をすること。
五、江田重蔵は、別紙第二物件目録記載の第六及び第七の土地に対する昭和三〇年九月二九日同庁受付第二三二〇八号登記原因を同日付抵当権設定契約とする抵当権設定登記及び昭和三〇年一一月一七日同庁受付第二七九九〇号登記原因を同年一〇月二九日付代物弁済とする所有権移転登記の抹消登記手続をすること。
六、石川正勝は、別紙第二物件目録記載の第二の土地に対する昭和三三年一〇月一七日同庁受付第三一四一一号登記原因を同日付売買予約とする所有権移転請求権保全仮登記の抹消登記手続をすること。
七、岩崎政義は、別紙第二物件目録記載の第三の土地に対する昭和三四年一月一三日同庁受付第七一七号登記原因を同年同月一二日付売買予約とする所有権移転請求権保全仮登記の抹消登記手続をすること。
反訴につき
八、野本治平及び江田重蔵の反訴請求を棄却する。
各本訴及び反訴につき
九、訴訟費用のうち、昭和三二年(ワ)第二一四七号事件について生じたものは野本治平の、昭和三四年(ワ)第一四七六号事件について生じたものは野本治平、江田重蔵、野本勢い、藤原美蔵、岩崎政義及び石川正勝の、昭和三四年(ワ)第五二二四号事件について生じたものは野本治平及び江田重蔵の各負担とする。
第二、野本治平の求めた裁判
反訴につき
一、国との間において、野本治平が別紙第二物件目録記載の第一ないし第五及び第八の土地を所有することを確認する。
二、国は、別紙第一物件目録記載の土地に対する昭和二八年九月一七日東京法務局大森出張所受付第七七九六号所有権保存登記の抹消登記手続をすること。
各本訴につき
三、国の請求はいずれも棄却する。
各本訴及び反訴につき
四、訴訟費用は全部、国の負担とする。
第三、江田重蔵の求めた裁判
反訴につき
一、国との間において、江田重蔵が別紙第二物件目録記載の第六及び第七の土地を所有することを確認する。
二、国は、別紙第一物件目録記載の土地に対する昭和二八年九月一七日東京法務局大森出張所受付第七七九六号所有権保存登記の抹消登記手続をすること。
本訴につき
三、国の請求を棄却する。
本訴及び反訴につき
四、訴訟費用は全部、国の負担とする。
第四、野本勢いの求めた裁判
一、国の請求を棄却する。
二、訴訟費用は国の負担とする。
第五、藤原美蔵、岩崎政義及び石川正勝の関係
右三名は適式の呼出しを受けながら本件口頭弁論期日に出頭しない。(なお、答弁書その他の準備書面の提出もない。従つて、特に明記した場合を除いて、以下の事実及び理由欄における本件当事者の表示中には右三名は含まれていない。)
(国の請求の原因)
第一、別紙第一物件目録記載の土地(以下東京飛行場用地又は本件一六万坪の土地という)が国の所有であることについて
一、明治五年八月二八日、東京府知事は国の機関として、折橋政嘉及び石黒堅三郎の両名に対し、武蔵国荏原郡羽田村、鈴木新田及び糀谷村(以下羽田村ほか二カ村という)地先海岸寄洲並びに海面約一五〇町歩を地代金二二五円、鍬下年期一五年として払い下げた。
二、よつて右両名は、羽田村ほか二カ村地先海岸寄洲並びに海面約一五〇町歩に対する排他的な総括支配権を取得したが、右支配権の実質は所有権と同一のもので、現行民法の施行により所有権と認められるにいたつたものである。
三、ところが、払下げの効力について、その後、東京府知事と折橋政嘉及び田中三四郎(石黒堅三郎の権利承継人)との間に争いが起り、明治二〇年、右両名の願書に対し、東京府知事は開墾着手不許の指令をした。そこで、右両名は東京府知事を被告として不当指令無効及び土地権利確認請求の訴を提起し、明治二一年九月一四日、東京控訴院において、「被告府庁カ原告ニ為シタル指令ハ之ヲ取消ス可シ随テ本訴払下ケノ場所ハ原告ニ於テ尚ホ其権利ヲ有スル者トス」との判決があり、右判決は確定し、両名の権利は確認されるにいたつた。
四、その後、折橋政嘉の持分権利は明治二一年九月二四日折橋桂造が相続し、右桂造はこれを明治二二年一一月宮本甚蔵に、右宮本は明治二三年三月三日折橋介三に、右介三は明治二五年一一月二五日片野重久に順次譲渡し、他方、石黒堅三郎の権利承継人田中三四郎の持分権利は明治二五年一二月一七日片野重久に譲渡されたため、ここに前記払下げ権利は片野重久に単独帰属することとなつたが、同人は明治二五年一二月一八日、更にこれを武田忠臣に譲渡するにいたつた。
五、(一) 武田忠臣は、明治三三年、片野重久を被告として東京地方裁判所に所有権確認の訴を提起し、同年八月三一日、勝訴の判決を得て、同年一〇月一八日、前記払下げ土地について左記のとおり所有権保存登記(以下武田登記という)を了した。
(イ) 荏原郡羽田村鈴木新田字御台場耕地続
中堤防内番外一番
一、畑地 一五町二畝七歩
(ロ) 同番外二番
一、原野 三反歩
(ハ) 同番外三番
一、溝敷地 三反四畝二〇歩
(ニ) 同番外四番
一、堤防敷地 三反五畝歩
(ホ) 同中堤防外北ノ方番外五番
一、原野 一〇町五反一畝歩
(ヘ) 同番外六番
一、原野 一四町二反歩
(ト) 同番外七番
一、原野 六町九反七畝一歩
(チ) 同番外八番
一、原野 三町五反二畝二七歩
(リ) 同元堤防外北ノ方番外九番
一、原野 一七町九反四畝一九歩
(ヌ) 同番外一〇番
一、寄洲 五町三反七畝一八歩
(ル) 同郡同村大字鈴木新田小字巽ノ方番外一一番
一、畑地 四町五反六畝一六歩
(オ) 同番外一二番
一、畑地 三反歩
(ワ) 同郡同村大字鈴木新田字江戸見崎北ノ方番外一三番
一、寄洲 七〇町五反八畝一〇歩
(二) そして、武田登記がなされた当時においては、払下げ海面は既に土地と称しうる状態にあつたものである。
六、(一) その後、明治三四年四月二六日にいたり、武田は右(ワ)の番外一三番の土地を、地番を同所一五九二番、地目を雑種地、地積を七〇町六反四畝二二歩(二一万一九四二坪)と変更登記し、この土地(以下武田土地又は一五九二番の土地という)の登記を明治四一年四月一七日、一五九二番の一地積五三町六反四畝二二歩(一六万九四二坪)と一五九二番の二地積一七町(五万一〇〇〇坪)に分筆し、明治四四年六月二日、右一五九二番の一を更に一五九二番の一地積三二町九反七畝二三歩(九万八九三三坪)、一五九二番の三地積一八町九反二畝三歩(五万六七六三坪)及び一五九二番の四地積一町七反四畝二六歩(五二四六坪)に分筆し、その後、年月日は不詳ながら、右一五九二番の三は一五九二番の三地積一三町四反二畝三歩、一五九二番の五地積三町歩、一五九二番の六地積五反歩、一五九二番の七地積一町三反二畝歩及び一五九二番の八地積六反八畝歩に分筆された。
(二) そして武田は、大正一四、五年頃、右一五九二番の一の土地を田口精爾に、一五九二番の三の土地を田口精爾、斎藤熊三郎及び石黒七三郎に一五九二番の五の土地を下坂源太郎に、一五九二番の六ないし八の土地を石黒七三郎にいずれも譲渡した。
(三) その後、年月日は不明ながら右一五九二番の一及び三ないし八地積合計五三町六反四畝二二歩は一部合筆され、その結果、一五九二番の一の地積は五三町三反三畝一〇歩(一六万坪)となり、残余の土地については再び一五九二番の何号かの地番が付せられたと考えられるが、その時期、経過その他詳細は戦災により登記簿が焼失したので現在は不明である。
そして、昭和四年頃にいたり飛島文吉は右の一五九二番の一の土地一六万坪を前記の各所有者から代物弁済により所有権を取得した。
七、国(所管庁は逓信省、現在は運輸省)は昭和四年一二月二八日、飛島文吉から右の一五九二番の一の土地一六万坪を東京飛行場用地として、代金二〇一万六〇〇〇円にて買収し、昭和五年一月一七日、その所有権取得登記を了し、以来、国において占有使用し、現在は東京国際空港用地の一部としてその使用を継続しているものである。なお、右の国名義の登記は戦災により焼失したので、昭和二八年九月一七日、再び別紙第一物件目録表示のとおりの保存登記を了している。
八、以上のとおり、本件一六万坪の飛行場用地は国の所有するところであるが、右用地が国の所有に帰するまでの権利移転経過を図示すれば、およそ別表第一のとおりである。
第二、本件一六万坪の飛行場用地上に、別紙第二物件目録表示の各登記が存することについて
一、前記折橋政嘉の相続人桂造は子供がなくて明治三六年六月二五日死亡したので、その実母折橋いろがその家督を相続し、次いで、右いろは明治三六年八月三日、折橋芳郎を養子に迎えて隠居したため、右芳郎が更に家督を相続するにいたつたのであるが、この折橋芳郎と前記田中三四郎は明治三六年九月一一日、前に述べたような経過で、すでに明治五年払下げの土地に対する権利を有していなかつたのにかかわらず、東京府知事に対し、第一の三に前記した明治二一年東京控訴院判決により認められた払下げ地の権利者として払下げ土地の引き渡し方を申請し、東京府知事もこれに応ずべきものとして、明治三九年五月二二日、左記のとおり内務省名義の保存登記(以下内務省登記という)をした上、同月二八日、右両名名義に移転登記をした。
(イ) 荏原郡羽田村大字鈴木新田字御台場耕地一六〇五番
一、寄洲 三四町二反四畝二〇歩
(ロ) 同一六〇六番
一、寄洲 四三町九反八畝二八歩
(ハ) 同一六〇七番
一、寄洲 三町三反三畝一〇歩
(ニ) 同郡同村同大字江戸見崎耕地一六〇八番
一、寄洲 三三町三反二畝六歩
(ホ) 同一六〇九番
一、寄洲 三五町一反二五歩
二、そして、右の内務省登記のうち(ニ)(ホ)の一六〇八番及び一六〇九番(以下一六〇八番及び一六〇九番という)は以後、別表第二記載のような所有名義移転の経過をたどり、一六〇八番については昭和一七年四月一八日、一六〇九番については同年二月四日、それぞれ野本治平の名義に所有権移転登記がなされ、戦災により登記簿が焼失したので、昭和二七年一二月一六日、再び野本治平のために保存登記がなされ、その後、別紙第二物件目録表示のとおり分筆され、同目録第六及び第七については昭和三〇年一一月一七日、江田重蔵に対し所有権移転登記がなされているほか、江田重蔵、藤原美蔵、野本勢い、石川正勝及び岩崎政義のため、請求の趣旨第三項ないし第七項記載のとおりの各登記がなされている。
三、ところで、内務省登記のうち一六〇八番及び一六〇九番(計六八町四反三畝一歩)は武田登記のうち番外一三番(七〇町五反八畝一〇歩)、即ち後の一五九二番(七〇町六反四畝二二歩)に含まれ、右の一五九二番が前述したような経過で分合筆を重ねたが、うち一五九二番の一の五三町三反三畝一〇歩(一六万坪)がまさに右一六〇八番及び一六〇九番にあたり、表示面積に相違はあるが同一の土地について登記されたものであり、この一六〇八番及び一六〇九番の登記を分筆したものであるところの別紙第二物件目録記載の各登記は二重に本件一六万坪の土地を表示しているものである。
第三、所有権確認と登記抹消手続請求
一、既に述べたところから明らかなように、国の所有する本件一六万坪を含む一五九二番の土地は、明治五年八月二八日、東京府知事が国の機関として折橋政嘉及び石黒堅三郎の両名に払い下げたものの一部であり、同人等の右払い下げ地所に対する総括支配権即ち所有権を、その後、転々取得するにいたつた武田忠臣によつて明治三三年に番外一三番として保存登記のなされた土地であるから、この土地に対してなされた内務省の一六〇八番及び一六〇九番の保存登記は何ら実体的権利を伴わない登記である。
二、武田忠臣のした番外一三番の土地の登記が、或いは土地に造成されていない海面についてなされた登記であつて効力がないとしても、右番外一三番の地所は遅くとも明治三九年一六〇八番、及び一六〇九番の登記がなされる直前までには陸地となつていたのであるから、同人の右のような登記も、そのときまでに実質を備えるにいたり、そのときから有効な登記になつたというべきであり、一六〇八番及び一六〇九番の登記が実体的権利を伴わない登記であつたことに変りはない。
三、しかるに、野本治平ほか五名は、右の一六〇八番及び一六〇九番の登記に由来する別紙第二物件目録表示の登記に前述のとおり名義を連ね、本件一六万坪に対する国の所有権を争うので、同人等に対し、本件一六万坪が国の所有であることの確認を求めるとともに、同人等名義の登記の抹消登記手続を求めるものである。
第四、野本治平に対する不当利得金の返還請求
一、国(契約締結の機関は東京特別調達庁契約部長、その後東京特別調達局管財部長、東京調達局管財部長を経て東京調達局不動産部長となつている)は野本治平との間に、昭和二五年三月三〇日付で、本件一六万坪の土地を同人所有の東京都大田区羽田江戸見町一六〇八番寄洲三三町三反二畝六歩及び同一六〇九番寄洲三五町一反二五歩、合計二〇万五二九一坪の土地として、昭和二〇年九月二一日にさかのぼつて賃貸借契約を締結し、以来、昭和二八年三月三一日までの間の賃料として別紙一覧表記載の金員を同表記載の日に支払つた。なお、昭和二七年七月一日から後の賃料は、右土地のうち一六万二四三二坪を野本治平に返還した残りの四万二八五九坪に対し支払われたものであり、また一覧表のうち朱書した部分は、国から同人への過誤払分として同人から国に返還した金額及びそれを国が受取つた年月日を示すものである。
二、しかしながら、右一六万坪の土地が国の所有であることは前に述べたとおりで、国は自己の所有地を野本治平の所有であると誤認し、同人と右賃貸借契約を締結したのであるから、右契約の締結について、国の意思表示の要素に錯誤があり、従つて右契約は無効であり、国が同人に支払つた賃料は法律上の原因を欠き、同人はまた、法律上の原因なくして右支払金を利得し、同額の損失を国に与えたことになる。
三、ところで、一六〇八番及び一六〇九番の野本治平の前主、東京土地埋立株式会社は国に対する昭和一二年三月二日土地所有権確認事件において、当時の東京飛行場が一五九二番に該当する国有地であることを認め、一六〇八番及び一六〇九番はその北側に存在するものと主張していたが、野本治平は同会社からその登記を承継したものであること、本件賃貸借契約の締結に際し、一六〇八番及び一六〇九番の土地として後の調査によれば現況が海面である区域を指示したこと(当時国はそのことを知らずに右両番地の土地は本件一六万坪の土地と同一であると誤認していた)、その後もあやふやな場所を指示していたことなどの事実からすると、同人は前記利得の当時から、本件一六万坪が国の所有であり、右利得が法律上の原因を欠くことを知つていたものと解される。
四、そうすると、同人は国から受領した金員について、その受領した日の翌日から支払い済にいたるまで民法所定の年五分の割合による利息を付して国に返還すべき義務がある。なお、同人は昭和二五年八月一五日と同年一〇月三〇日に受領した合計金一〇三万四六六五円のうち金五二万五五四五円を昭和二六年七月三一日に返還しているが、その残額金五〇万九一二〇円については少くとも昭和二五年一〇月三一日から年五分の割合の利息を付して支払う義務がある。
よつて、同人に対し、請求の趣旨記載のとおりの金員の支払いを求める。
五、ところで、国が野本治平と右の賃貸借契約を締結するにいたつたのは次のような事情によるものであるから、右契約の締結について、国には同人の主張するような重大な過失はない。
(一) 国は一五九二番の一の土地を東京飛行場として管理していたところ、右飛行場は今次敗戦の結果、昭和二〇年九月一一日、連合国軍最高司令官覚書により連合国軍に近隣の土地及び島とともに接収された。
(二) そして、連合国軍は右飛行場を拡張するため、同日、国に対して、同年同月二二日までに江戸見町一帯(この地域は現在「東京国際空港」となつているので、以下「東京国際空港用地」という)の住民を立退かしめ、同地上の物件を収去し、直に飛行場拡張工事に着手することを命じたが、右空港用地のうち、従来の「東京飛行場」を除くその余の部分は大部分が民有地で、穴守稲荷神社を中心に人家ちゆう密の商店街を形成し、南方は東貫澪を隔てて東京瓦斯、日本特殊鋼等の大工場が立ち並んでいたところで、これらの住民を立退かしめ、地上物件を収去して東京飛行場と同じ高さに整地することは大変な工事であり、しかも、これを早急に為しとげるべしとするのが連合国軍の強い要求であつたので、これに応じて、国は右の工事を土建業者に請負わさせることにしたけれども、敗戦により資材が欠乏し、建設機械も被災損耗していた当時であるから、連合国軍の要求を満たすことのできないことは明らかで、ここにおいて、連合国軍は、自ら住民の立退を強制するとともに、同地区への日本人(政府職員も例外ではない)の立ち入りを厳禁し、自己保有の建設機械や資材を動員投入し、殆んど数日を出ずして前記の物件を撤去するとともに土地の形状を変更してしまつた。
現在の東京国際空港は、南は多摩川に、西は海老取川にかこまれ、北及び東は東京湾に臨んだ一つの島を形成しているが、このように一つの島をなし、かつその全体が飛行場となるにいたつたのは、右の拡張工事によるものである。
(三) ここにおいて、国としては、右国際空港用地となつた土地のうち民有地については、その位置、面積を確定して、その所有者等との間に、連合国軍の用に供するための借上契約を締結する必要に迫られたわけであるが、形状をすつかり変更された土地に、しかも立ち入つて調査することも許されずに、位置、面積を確定することの困難であることはもとより離散した所有者等を探し出し、それが果して実質上の所有権者であるかどうかを調査することも、公簿、公図が焼失散逸していた当時としては至難のことであつた。
そこで、国としては、広く新聞紙上等を利用して所有者の申出を促し、申し出た者の申告する土地が、その町名において接収土地にあるものであれば、その者の呈示する資料により一応所有権者と推測することが可能であるかぎりその者を所有権者として取り扱い、かつ、その者が指示する土地の所在が、他の申出人の土地と重複しないかぎり、指示の場所に土地が存在するものとして逐次、借上契約を締結して行つた。
このように、借上契約を締結する国の機関としては、島の中にいかなる町名があつたかは判るが、所轄の税務署や登記所が戦災で焼けて、土地台帳や土地登記簿の全部を見る術がなかつたのであるから、それぞれの町の地番が何番地から何番地まであるものか、島全体の面積がどの位になるのか知ることができず、唯々、申し出て来る者の云う町名が島のうちにある町名と合致し、しかもその者の提出する資料が登記簿なり土地台帳の謄抄本であるときは、その面積の広狭いかんにかかわらず借上契約を締結せざるをえないという状況であつたのである。
(四) そして、野本治平もまた、右のような状況のときに、昭和二五年三月三一日、国に対して土地所有者であると申し出た者の一人であり、同人は、昭和二五年二月四日付蒲田税務署作成にかかる一六〇八番及び一六〇九番の土地についての土地台帳謄本を呈示し、かつ、東京国際空港用地の東南端に位置する土地であると申告するので、同日、国は同人との間に、右土地が連合国軍によつて接収使用されるにいたつたと思われる昭和二〇年九月二一日にさかのぼつて賃貸借契約を締結したものである。
(五) 東京国際空港用地には、その後も長く日本人の立ち入りが禁止されていたが、昭和二七年一月末にその一部が、更に同年七月一日にその余の大部分が接収解除になつて国に返還されるにいたつたので、ようやく国も現地に臨んで、借上土地の位置及び面積等を調査することが可能となつた。
それで国は、さきに接収一部解除の当時、連合国軍から提供された航空写真に基づいて計算した島全体の総面積に比べて、前記のような資料に基づいて計算した総面積が約二〇万坪も多いということに疑問をいだいていたので、早速、現地の調査を開始したところ、野本治平がさきに指示した一六〇八番、一六〇九番の箇所は一面海に属することになるので、更に同人の指示を求めたところ、同年一〇月頃にいたり、同人は、従来「東京飛行場」として国が管理して来た土地を指して、同所が一六〇八番及び一六〇九番であると主張するにいたつた。
(六) 国としては、久しく国が管理して来た土地であるので、果して野本治平の所有であるかどうか疑わしかつたが、それかといつて、右土地が国有であることを示す公簿は焼失しているし、国有地として買収するときの記録も散逸し、かつ右買収事務にたずさわつた者の氏名住所もにわかに調査できなかつた当時としては、一六〇八番、一六〇九番の土地台帳謄本を呈示してする同人の主張を一がいに否定し去ることもできなかつた。そのため、真偽の調査には相当の日時を要しても確実を保する方針のもとに、その後、昭和二七年一二月二七日に、昭和二八年三月三一日までの賃料は一応、同人に支払うとともに、同人に対して率直に国の疑問を開示して同人の所有権を立証する諸材料の呈示を求める一方、自らも鋭意調査を続け、本件訴訟に証拠として提出した書類を含むぼう大な記録を関係者から借用して検討したほか、関係者のもとを訪ねて、その記憶するところを聞き、昭和二九年にいたり、ようやく前記第一ないし第三のような事実が判明したほか、後述のとおり、一六〇八番及び一六〇九番は不正の登記である旨の確定判決が存し、同人は敗訴者の承継人として、右判決の既判力を受ける者であることが判明した次第である。
国は以上のような事情のもとにあつたのであるから、国に重大な過失は存しない。
第五、時効取得を理由とする予備の主張
一、仮りに、国の前主であつた武田忠臣等は本件一六万坪の土地について実体的権利を有しなかつたと認められ、国もまた実体的権利を有しないことになつた場合は、国は右一六万坪の所有権を時効により取得したと主張する。
二、即ち国は昭和四年一二月二八日、飛島文吉から東京飛行場用地一六万坪を買い受けたが、飛島文吉にしろ、その前主である田口精爾等にしろ、いずれも右土地について正当な権利を有するものと信じていたのであり、国もまた、同人等の言を信用し、更に登記も存在していたことであるから、何らの疑念も持たずに購入したものである。
そして、同日以降、自ら占有管理し、翌昭和五年一月には所有権取得登記をし、更に同年中に右用地の整地工事などを業者に請負わせて飛行場施設を整備し、現実的支配を継続して行つたのであるが、国が「所有の意思」をもつて占有していたことは、対価を払つて正式に飛島文吉から購入したこと、国自ら、飛行場用地として施設したこと、更に逓信省告示で民間飛行場開設の告示をした後、使用して来たこと、国有財産として管理して来たこと等から明らかである。
しかも、その間、右飛行場用地が告示まで出された飛行場であつて、その存在が天下公知の事実とされているのにかかわらず、昭和二五年にいたるまでの間、国は野本治平ないしその前主等から右用地について何の主張も聞いたことはなかつた。
三、このように、本件土地を、昭和四年一二月二八日以来、逓信省航空局が所有の意思をもつて、平穏公然に東京飛行場用地として占有管理し今日にいたつたことは明らかであり、その占有の始め、善意、無過失であつたことも明らかであるから、同日から一〇年の期間の満了したときにおいて国はその所有権を時効により取得し、その結果、野本治平の前主である東京土地埋立株式会社はその所有権を失つたものであるし、また、国の占有開始のとき国に過失があつたとしても、二〇年の期間の満了により、国はその所有権を時効により取得し、その結果、野本治平はその所有権を失つているものである。
四、してみると、一六〇八番及び一六〇九番の登記が何ら実体を伴わないものとなつたことに変りはないところ、野本治平ほか五名は、右登記に由来する別紙第二物件目録表示の登記に前述のとおり名義を連ね、本件飛行場用地に対する国の所有権を争うので、同人等に対し、前同様の裁判を求める。
五、また国は、本件飛行場用地が国の時効取得した土地であることを知つていたら、野本治平と本件賃貸借契約を締結しなかつた筈のものであり、この点、右契約の締結について、国の意思表示の要素に錯誤があるから、右契約は無効であり、同人は法律上の原因なく、国から、本件支払金を利得し、同額の損失を国に与えているものであり、かつ、同人は、同人の利得が法律上の原因のないことを知つていた者であるから前同様の裁判を求めるものである。
所有権確認と登記抹消手続を求める国の請求の原因に対する野本治平、江田重蔵及び野本勢いの主張に対する反論
第一、折橋政嘉及び石黒堅三郎が取得した権利は本件払下げ目的物に対する排他的総括支配権である。
一、明治初年における土地所有権概念について
(一) 旧幕藩体制下の土地所持関係
現行法のもとで所有権という概念は、物に対する抽象的権限(タイトル)を示すものであり、物に対する具体的支配=所持の有無と関係はない。この後者は、現行法上「占有」という概念である。占有は物に対する具体的事実的支配=所持を中心に構成されている概念であつて、その所持が権原に基づくものであるかどうかには関係ない。
このように、現代の法制度のもとでは、抽象的権原を意味する所有権と具体的事実的支配権を意味する占有権とは相互に全く別箇の概念として法律上構成されているが、「所有権」と「占有権」とが、このように全く別な概念として構成されるにいたつたのには歴史的理由があり、いつの時代にもそうであつたわけではない。即ち、
旧幕時代の法体系においては物権と債権の分離がなかつた(旧幕時代には、債権を給付請求権としてよりは、給付せらるべき物に対する支配権のごとく考えていた)のと同様、所有権と占有権との分離、対立もなく、徳川時代の土地支配権は、いわゆる「所持」、「支配進退」という概念であり、それは今日的言葉で云えば所有と占有とが同時に合せ含まれる概念であつたのである。つまり、徳川時代の「所持」においては、土地を具体的に事実上支配していることが即ち権原の根拠たりえたのであり、従つて、「所持」を離れて、抽象的に所有権の帰属を考えることは意味をなさなかつたのである。
このように、権原と事実的支配とが結びついた徳川時代の「所持」の観念のもとでは、土地を現実に支配し、そこから具体的利益をひきだすことのできる者はすべて権原ある者であり、ここに、権利主体が一人にではなく数人に帰属するという現象が見られ(権利主体の重畳性)、一つの物の上に領主的所持権、農民的所持権、更にその中間に地主的所持権などが幾層にも重なつていたのであり、だから、学問上、領主、地主が耕作者から年貢や小作料を徴収する権利を上級所有権、耕作者が土地を直接に耕作、利用する権利を下級所有権と呼ぶのであり、封建的土地所有権は多かれ少なかれ、このような分割所有権としての性格をもつていたのであり、勿論、このような分割所有権の制度は、一物一権主義の原則の上に立つ近代所有権の制度とは全くその性質を異にするものであり、旧幕時代において、到底、今日にいうような土地所有権の概念が存しなかつたという見解も以上のような趣旨においてのみ妥当するものである。
(二) 明治初年の土地所有関係
慶応三年の大政奉還によつて江戸幕府は崩壊し、明治新政府が成立し、明治二年に版籍奉還が行われるや、全国はすべて朝廷の直轄地となり、朝廷の法が全国に行なわれ、明治四年の廃藩置県により、新政府は統一政権としての形を整え、中世以来の封建制度は全く崩壊するにいたつたのであるが、土地領有関係についても、幕府諸侯は年貢徴収権を新政府に移譲することになつた。そして、土地制度における公法的支配権が封建領主から明治新政府の手に移るや、封建的土地制度は大改革されることになつた。
その主要な経過として、新政府は、明治元年に百姓町人の土地所持の権を確認し、明治四年には作付及び地種転換の制限を、明治五年には地所永代売買の禁制をいずれも廃止したが、新政府による右のような改革は、封建制度下において農民の土地所持に課せられていた諸制限を撤廃して、土地の使用、収益、譲渡の自由を認めて土地所有権の完全性を具理化し、土地私有制度の発展を意図したものであり、この土地所有関係の変容により、土地に対する総括的支配権としての所有権概念が構成され、この所有権概念はその後、明治二三年公布の旧民法、明治二九年公布の新民法の基本的な概念となつたものであり、従来の土地所持の権を現行法における土地所有権として確認するにいたつたのは、欧州近代法がわが国に輸入されて作用した結果にほかならないのであるが、一方、前述のような諸改革は明治維新の政治的理想よりして、また維新草創の際、地租改正を一気に成就するため新政府が租税負担者である地主の保護を考慮しなければならない理実的な必要上から、領主的支配権の排除された土地所持権を単一形態の所有権と認め、このような所有権思想のもとに立法の基礎をおき、諸々の農業政策を実施したのであつて、明治五年以前において、既に今日いう土地所有権概念は成立していたものと解されるのである。
二、明治初年においては、海面も私有の対象となりえたことについて
(一) 海陸の分解
海とは何をいうかについて、実定法上何らの規定がないから、社会通念によつてその内容を定めるほかはない。わが国の領域内にある海は、現在においては原則として自然公物であり、公共の用に供せられている。そして行政の運用上では、春分及び秋分における満潮位を標準にして、公有水面たる海と陸地との境界としていることは野本治平ほか二名の主張のとおりである。しかし、明治初年においても現在と同様に解していたかどうかは分明でない。
(二) 本件払下げ目的物の当時の状況
本件払下げ目的物は明治五年の払下げ当時、海岸寄洲と称されていた地所であつて、一部に草生高洲が存したが、大部分は満潮時に海面下に没する地所であつたことは認める。
(三) 明治初年の土地制度と海面の私有
(1) 明治五年九月四日大蔵省達第一二六号地券渡方規則追加第二七条によると、「堤外附寄洲又ハ流作場等不定地ノ類大繩場ニ相成居持主有之候ハハ格別確定ノ持主無之地所ハ入札払ニ致シ持主相定メ可申若シ持主ニ難相定分ハ拝借地ノ積可相心得」事と規定されており、海面埋立許可の区域を意味すると野本治平ほか二名の主張する「大繩場」についても私有を認めて地券を交付することと定めていることや、明治六年七月の地租改正条例施行のための地租改正施行規則が
第八則 「海川ノ附洲湖水縁等ノ不定地或ハ試作ノ地所等反別確定無之分ハ何不定地凡反別何程ト相記シ地価相定規則ノ通収税可致事」
第九則 「総テ旧来大繩受ノ地所ハ現歩調査ノ上地価相定規則ノ通収税可致事
但旧来大繩受ノ地所トイヘトモ不定地ノ分ハ第八則ノ通タルヘキ事」
第一一則 「池沼等ニテ持主有之水草其他ノ利潤アルモノハ相当ノ池沼代価ヲ定メ規則ノ通収税可致事」
第一二則 「新開場鍬下年季中ノ分ハ其年季中無税ノ積相心得新開試作地反別何程ト相記無代価ノ券状可相渡事」
と規定しており、旧来から大繩受の地所となつている不定地についても、鍬下年季を経過しているものは地租を課税されることになつているところからすると、課税の対象となるかぎり私有地と認められる筋合であるから、本件目的物のように、海岸附洲に接続して海面の一部が大繩場となつている場合においては、この海面も私有権の対象となり、このような地所を払下げにより取得した者は、その地所に対し排他的な総括支配権を有したものと解すべきである。
(2) また、明治八年二月七日内務省達乙第一三号によると「昨七年第百二十号地所名称区別官有地第三種之内湖海沼池ノ類ヲ埋立耕地宅地等ニ自費開墾致度趣ヲ以払下出願ノ節故障ハ勿論他ニ望人無之候得ハ水面埋立之分(海面ハ満潮ノトキ水下トナルモノ)無代価可下渡附寄洲或ハ自然堆積乾燥シテ平常水浸ササルモノハ都テ一般ノ成規ニ照シ相当代価ヲ以払下可申最望人両人以上有之候得ハ水面ト雖入札払ノ積ヲ以取調可伺出此旨為心得相達候事」と規定されているが、「水面埋立之分」とはまさに海面を指称するものであつて、この当時においては水面部分は無代価下渡ができるものとされている(入札払の際は無代価ではない)けれども、下渡がされたかぎり、水面部分も私人の所有の対象になりえたものと考える。
(3) さらに、明治二三年一一月二五日勅令第二七六号官有地取扱規則第一一条によると「官ニ属スル公有地及公有水面ハ其公用ヲ廃シタルニアラサレハ売払譲与交換又ハ貸付スルコトヲ得ス」
と規定され、また第一三条には
「官ニ属スル私有水面ノ売払譲与交換貸付及使用ハ本令ニ定ムル土地ノ規定ニ準拠スヘシ」とされているところからすると、明治二三年当時においても、公用を廃すれば海といえども売り払いができるという考え方に立つていたものと解せられるのである。
(4) 大審院大正四年一二月二八日判決が「海面ノ儘、之ヲ私人ノ所有ト為スコトヲ得サルハ古今ニ通スル当然ノ条理ナリ」と極論しているのは妥当ではない。即ち、
現行公有水面埋立法(大正一〇年法律第五七号)によると、河、海、湖、沼その他公共の用に供する水流又は水面にして国の所有に属するものは公有水面と称せられ、これら公有水面については、埋立免許を受けた者のみが竣功認可により埋立地の所有権を取得することができ、私人が水面のままにて所有権を取得することは許されないものとされているところからすると、通常、海は海面のまま、私人の所有となすことができないものであることについては敢て異論をさしはさむものではないが、海といえども、一定の範囲を区画すれば物として支配可能となるほか、海岸に面した土地をその国の者である私人が自ら掘つて海面としたような場合、直ちに私法上の所有権が消滅するとは解されない(支配可能な限り)法理よりして、現在においても、例外的に海面が所有権の対象になつてもさしつかえないものと解する。
(5) ところで現行公有水面埋立法のような法制の完備していなかつた明治初年においては、海面といえども、公共の用に供する必要のない区域については、政府の処分により公用を廃し、私有水面にすることができるという見解のもとに、埋立開墾を目的とする海面の払下げ(売払い)の制度が、公有水面埋立免許制度の確立の前段階の一時的取扱として規定されていたものと解するのである。そして、本件払下げも、海岸寄洲を含む海面約一五〇町歩を区画して支配可能のものとし、鍬下年季一五年間に陸地に造成し、開墾する目的のもとに、土地代金二二五円にて素地の私有を認めたものと解するのである。
三、払下区域は特定していたことについて
(一) 前記のように、明治五年九月四日の地券渡方規則第二七条には「堤外附寄洲又ハ流作場等不定地ノ類大繩場ニ相成居……」、明治六年七月の地租改正施行規則第八則には「海川ノ附洲湖水縁等ノ不定地或ハ試作ノ地所等反別確定無之分ハ何不定地凡反別何程……」、同規則第九則但書には、「旧来大繩受ノ地所トイヘトモ不定地ノ分ハ……」と規定されているところからすれば、「武州荏原郡鈴木新田外二ケ村地先寄洲凡反別百五拾町歩」という表示で払下げ対象物たる地所は特定されているものと解されるほか
(二) 明治二〇年六月一六日付折橋政嘉、田中三四郎の両名から東京府知事宛の荏原郡羽田村外二ケ村御払下地ニ付伺書(甲第三号証の二)によれば、「明治五壬申八月廿八日附ヲ以テ荏原郡羽田村鈴木新田及ヒ糀谷村海岸寄洲及ヒ海面別紙略図面朱引ノ個所大約百五十町歩余ヲ御庁ニ於テ私共ニ御払下ケ相成候ニ付御命令ニ基キ其際直チニ地代金上納尋テ御庁掛員現場ヘ御派出該地所等御引渡シ相成リタルヲ以テ固トヨリ私共ノ所有ニ属セシコト明瞭ノコトニ御座候」とあり、また明治二一年東京控訴院裁判云渡書(乙第二三号証の四)によれば、折橋政嘉、田中三四郎の両名は「上項ニ掲クル地所ハ明治五年八月以前ニ在リテ甲第五、六、七、八号証ノ如ク下渡ノ義ヲ品川県等へ出願シタルニ無代償ニテハ大蔵省ニ免許ナキ趣ニ付甲第九号十号証ノ如ク十五ケ年ノ鍬下年季ニテ代金弐百弐拾五円ヲ以テ東京府ヨリ払下ケヲ受ケ右払下ケ代ノ十分ノ一即チ内金弐拾弐円五拾銭甲第十一号証ノ如ク即時上納シタリ然ルニ人工ヲ用ヒ開墾スルトキハ労費多ク利得少シ故ニ波濤ノ力ヲ仮リ漸次塵芥土砂等ヲ積聚スル為メ土地ノ区画ヲ定メ数千本ノ杭木ヲ打樹テ置キ明治九年中郷里ニ帰リタリ」と陳述しているところからすると、明治五年の払下げの当時において地所の引き渡しもなされ、その区画も特定していたと解される。
(三) 野本治平ほか二名の主張の東京府知事の各文書に、払下げ区域が不明確であるとしているのは、折橋、石黒両名に払い下げた約一五〇町歩のうちに、東京府が明治一三年に地元村民に開墾許可した約六〇余町歩が含まれているかどうかについて問題があつたためであるが、右約一五〇町歩のうち番外一三番即ち後の一五九二番に該当する区域については何ら問題なく、東京府知事においてこの部分の不明確さを争う意図はなかつたものである。現に、この番外一三番にあたる部分の地域は特定していたからこそ、この地域に地番を異にする二重登記が生じる結果となつたものである。
第二、払下げ権利は海面(公有水面)埋立権ではない
一、明治初年における埋立開墾についての法制
野本治平ほか二名においては、明治五年払下げの権利を水面埋立権と断定し、水面埋立権の内容について立論しようと意図しているようであるが、その根拠は同人等の挙示する法令に認められている埋立権を念頭におき、これを前提として、明治五年当時においてもこのとおりの公有水面埋立制度があつたものと結論するものである。しかし、これは本件の場合には当つていない。
海面が公物であり、国権擁護確立の明治維新の時代において、海面はすべて官有として、これが支配、埋立開墾等について官許を要したことはうなずけるけれども、官許による海面の埋立許可を指して、同人等主張のように海面埋立権(現在の公有水面埋立権)の付与であると解さなければならないいわれはなく、官権旺盛の時代であればこそ、政府の自由裁量処分により海面といえども払下げにより公用を廃して私有とすることができたものと解せられるのである。
また同人等は慣行法制の存在を主張する。大阪控訴院判決摘示の事実関係は旧幕時代の新田開発の場合であり、本件に直ちにあてはまるものではなく、また乙第五六号証は折橋芳郎の意見に過ぎないから、これを過大に評価すべきものではない。旧幕時代の新田開発について右判決の判示するとおりの法則があつたとして、この法則が明治維新後においても当然の法理として適用されたものとは解しえない。少くとも、本件払い下げについては、不文の慣行によつたものではない。即ち、同人等の挙示する明治一三年の地理局通知以前にも、明治初年以来、土地開墾払下げ等について、
(イ) 明治三年九月二七日太政官布告第六三〇号(明治五年大蔵省達第一号をもつて取消)
府藩県管内開墾地規則ヲ定ム
(ロ) 明治四年八月、大蔵省達第三九号(明治六年太政官達第二五七号をもつて廃止)
荒蕪不毛地払下ニ付一般ニ入札セシム
(ハ) 明治五年一月一三日大蔵省達第一号(明治六年太政官達第二五七号をもつて払下差止)
荒蕪地入札払可相成ニ付午年布告開墾規則取消
(ニ) 明治六年七月二〇日太政官達第二五七号
荒蕪不毛地並ニ官林等入札払差止
(ホ) 明治八年二月七日内務省達乙第一三号(前出)
等の法令が発布されていて、当時慣行によるほかに拠るべき法令がなかつたとはいえない。
すなわち、明治五年の本件地所払下げ当時においては、大蔵省達第三九号が適用されていて、それによると水面埋立分の払下げ代金は、即時一〇分の一を上納し、残金は開墾成就の上皆納する、万一相違の節は地所を取りあげることと定められていたのであつて、野本治平ほか二名の挙示する明治一三年の地理局通知によると、なるほど、水面埋立分は無代価下渡することにし、希望者二人以上あつて水面を入札した場合においても、「落札ノ価額ハ予定ノモノトシ工業竣成ノ上之ヲ徴収シ実際払下ヲナスヘシ故ニ当省ハ工業竣成ノ上払下ノ積ヲ以テ其埋立ノミヲ許可スルモノ」とされており、これによれば埋立権のみを付与するものと解される余地があるけれども、右通知が本件払下げに適用されるものとはなし得ないのである。
二、折橋、石黒両名の出願の趣旨と、これに対する東京府の払下げ
土地開墾については、明治三年九月二七日、太政官布告第六三〇号府藩県管内開墾地規則が通達されていたところよりすると、折橋等の出願の趣旨がおおむね野本治平ほか二名の主張のような趣旨のものであつたことには敢て異論を称えるものではないけれども、明治四年八月にいたり、「荒蕪不毛地払下ニ付一般ニ入札セシム」ることとなり、大蔵省達第三九号が通達され、前記明治三年九月の開墾地規則は明治五年一月一三日大蔵省達第一号で廃止されるにいたつている経緯に徴すると、本件の地所払下げは当時施行されていた右の明治四年八月の大蔵省達第三九号達により実施されたものと解せられ、同人等主張のような出願通りの許可があつたとはいえないのである。即ち、乙第一五号証の一二なる書面は右の第三九号達に示されている入札雛形と同一形式であり、また乙第一五号証の一三によると、大蔵省勧農寮は入札払いにするよう東京府に指示している。しかし、右の指示に対しては折橋等は乙第一五号証の一四の上申書を提出して、今更、入札払下げは困る旨を懇願したほか、既に大蔵省において乙第一五号証の一一のとおり「相当之地代金」をもつて払下げの取り計りを許可していたものでもあるので、東京府は入札の方法によらず随意契約により、明治五年八月二八日、寄洲約一五〇町歩を金二二五円をもつて払い下げ、右の第三九号達により、その代金の一〇分の一である二二円五〇銭を同年九月二七日、上納させたものと考えられるのである。
同人等は、右払下げを海面埋立権を付与したにすぎないと主張するが、右第三九号達によると、「各府県管内ニ於テ地所望ミノモノ有之節ハ広ク入札為致……」或いは「管内荒蕪不毛之地所自今相当ノ価ヲ以御払下ケ相成候間士民ヲ論セス望之者ハ別紙雛形ノ通リ入札致シ……」と規定されているから、入札払下げにより地所の持主となるものである。即ち、右第三九号達により入札払下げの方法を規定し、払下げの対価である代金を上納させる取り扱いとした以上、地所に対する排他的総括支配の権原(所有権と解する)が認められて然るべきである。
また、折橋、石黒の両名が乙第一五号証の一五に「且場所之義ハ追テ御引渡可相成旨被仰渡承知奉畏候」と記載しているのは、右書面差出し後において東京府係官立会の上で地所の引き渡しのなされたことを指すものであつて、甲第三号証の二によれば、「尋テ御庁掛員現場へ御派出該地所等御引渡シ相成リタル」ことが判明するけれども、本件の払下においては、必ずしも、右の引渡しは、必要なことではない。
三、二、三の用語について
(一) 「払下」の意義
「払下」という言葉の封建時代の用法についてはともかく、前述の第三九号達には「御払下ケ」と明示しており、また明治五年正月の東京府下地券発行地租収納規則第五によると、「従来貸附地ノ分ハ其坪数ヲ点検シ是迄ノ拝借人ヘ低価ヲ以テ可払下筈ニ付地位ヲ上中下ノ三等ニ分チ左ノ低価標準ヲ以テ払下代金高取極メ上納可為致事」と規定し、さらに明治五年二月二四日大蔵省達地所売買譲渡ニ付地券渡方規則第十によれば、「願ニヨリ荒蕪ノ地所払下ケ候節ハ同様地券可相渡事」と規定されているところからすると「地所払下」という語は、今日使用されている払下げ(官側より民側に対する売渡し)の意味と同様の用法であり、現在の意味における所有権の移転を伴うものであることは明白である。
(二) 「地代金」の意義
地代といえば、土地使用の対価と解する余地もあるが、地代金の用法については、前記の法令中にも使用されており、その意味するところが土地所有移転の対価であることは疑いの余地がない。
旧幕時代において、どのような慣習があろうとも、明治新政府によつて、これによらざる趣旨の法令が発布されていれば旧慣は適用されないのである。
(三) 「鍬下」ないし「鍬下年期(季)」の意義
この意義が野本治平ほか二名の主張のとおりであることは認める。国は、鍬下年季の経過によつて、土地の所有権が、土地開墾人に移転すると主張するものではない。
第三、武田忠臣の権利取得
一、仮装譲渡行為の不存在
野本治平ほか二名は、折橋桂造から宮本甚蔵に対する権利譲渡は仮装譲渡であるほか、その譲渡は後日、合意解除されていると主張するが、国はこれを否認する。右の譲渡が有効であることは、大正二年一二月二六日東京地方裁判所判決(甲第一八号証の一)及び大正七年五月一五日東京控訴院判決(甲第一八号証の二)のすでに認めたところである。
二、権利譲渡と官許
国の主張する総括支配権については譲渡について官許は必要でない。
第四、武田登記の有効性
一、対象物は土地である。
明治三〇年の宮城控訴院判決当時、右事件の係争地のうち地元村民が開墾した土地六五町歩余については、既に完全な土地であつたと解せられるが、武田登記のうち番外一三番にあたる部分がどの程度陸地を形成していたか判明しない。即ち、右訴訟で書証として提出された乙第四〇号証の一、二によると、番外一三番の土地は、地目を水地或いは寄洲と表示していることはともかく(寄洲が形成中であつたことは地形上認められる)、当時の現況としては堤防もなく汐入りの場所であり、備前国産不老貝を培養試験中とも記載されているところよりすれば右判決が陸地と認定した程度が推認できるものである。しかし、ともかく、乙第四一号証の五ないし七によれば、明治三〇年当時、番外一三番にあたる場所がまだ海面のままであつたことは推認される。これが明治三三年頃までの間には陸地と認められる土地に造成されたものと考える。
もし、武田忠臣のした番外一三番の登記が、土地に非ざる海面に対する登記として無効であるとしても、右武田は少くとも海面たる土地についての総括支配権者であつたのであるから、同人が権利者である時期において陸地が造成されたものであれば勿論のこと、その承継人によつて陸地に造成されたものとしても、これが陸地に造成されたかぎりにおいて、右の保存登記は実質を備えたものとして有効なものとなるものである。
二、官許について
国としては明治五年払い下げの権利は払下げ地所に対する総括的支配権であり、海面部分については、これが陸地に造成されるや直ちに土地所有権を取得すると解するので、土地形成後に官許による所有権の付与の必要はない。
三、その他の主張について
すべて争う。
第五、国の所有権取得
一、決算報告書について
昭和二年度から昭和六年度までの逓信省所管航空路設置費の年度別決算額及び昭和二年度から昭和四年度までの逓信省所管決算報告書中、航空路設置費の予算の翌年度繰越事由説明がそれぞれ野本治平ほか二名の主張のとおりであることは認める。
国としては、国有財産増減報告書及び国有財産現在額報告書(甲第二五号証の五、六の各一ないし四、甲第二五号証の一〇の一ないし六)、国有財産台帳(甲第二五号証の一の一ないし六、甲第二五号証の二、三の各一、二、甲第二五号証の四の一ないし三)、土地登記簿謄本写(甲第二一号証の四一四)その他証人の証言等から、国が本件飛行場用地の所有権を取得したと主張するものである。
二、国有財産増減報告書について
国有財産の会計における決算制度については、決算審査の任に当る機関はもちろん、会計検査院と国会である。その手続を要約すると、各省各庁の長が国有財産台帳に基づいて毎会計年度間における国有財産の増減額と年度末現在額を算出して、国有財産増減及び現在額報告書を作成し翌年度七月三一日までに大蔵大臣に送付することを以て第一段階とする。次に、大蔵大臣はこれらの報告書に基づいて国有財産増減及び現在高総計算書を作成し、報告書とともに一〇月三一日までに内閣を経由して会計検査院に送付する。これが第二段階である。このようにして送付された書類に基づき、会計検査院は検査を行い、内閣はその検査を経た総計算書に説明書をそえて通常国会に報告することになつている。
右の次第であるから、国有財産増減報告書を国の内部機関相互間の報告文書に過ぎないということはできない。
三、国有財産台帳について
(一) 作成時期について
東京飛行場の設置並びに移転について、主張のような告示がなされたことは認める。この昭和四年四月一日付逓信省告示第九七八号に明示されているように、立川町に設置された東京飛行場は既設の軍用飛行場を使用して発足したものであるから、右飛行場の土地、建物、その他の航空設備はすべて旧陸軍の管理するところであり、従つて立川町に逓信省関係の国有財産台帳は存在しない。逓信省は昭和四年末、本件一六万坪を買収して滑走路その他の航空設備を新設し、昭和六年八月、立川町の東京飛行場をここに移転し、これを民間航空機のための飛行場として使用を開始したものであるから、これに対する逓信省の国有財産としての管理が昭和六年八月の告示以前から開始されるのは当然のことである。そしてまた、立川町の軍用飛行場と羽田町の新設飛行場とは所管を異にするから、一つの国有財産台帳上に、両飛行場が登録されることはなく、移転の経過が記入されることもありえない。
(二) 沿革欄の記載について
野本治平ほか二名の主張のとおり、沿革欄の記載がなされていることは認める。これは昭和一五年六月二〇日航空局庁舎が落雷により焼失した際、備え付けの国有財産台帳も焼失したので、昭和一六年四月以降昭和一八年四月頃までの間において、当時、逓信省航空局管財係雇員の渡部保三郎が再製したという事情に起因するものである。
(三) 所在地の記載について
すべて、主張のとおりであることは認める。これも前記の再製したという事情によるものである。
(四) 台帳記載の筆跡について
主張のとおり、昭和五年から昭和一三年までの間の記載が同一人の筆跡であることは認めるが、その間の事情については前に述べたとおりである。昭和二二年三月三一日の記載事項の筆跡も同一との主張は否認する。
(五) 地番の記載について
主張のとおりの記載になつていることは認める。土地に地番地目を付し筆数によつて表示するのは土地台帳登載のための区分であるが、国有財産については、土地台帳法の適用がない関係から、右区分による表示の必要はないのであり、旧国有財産施行規則にも筆数別に登録しなければならないとする規定もなく、右規則の別表である国有財産整理種目表によると、種目として公用財産たる敷地は、用途別一区域毎に区分し特有名称を冠し、数量単位を坪で表示することになつているのであるから、主張のような不備はない。
(六) 数量欄の記載について
本件国有財産台帳に「昭和五年一月七日購入一六万坪」と記載されている土地が、土地台帳並びに登記簿上、羽田江戸見町一五九二番の一逓信省用地に該当することは、甲第四三号証の一の土地台帳謄本と甲第四四号証の一の登記簿謄本により明らかで、これらの公簿の間で、一五九二番の一の地積は一致している。
ただ、本件国有財産台帳に「昭和一三年二月七日購入五万三四三八坪八合八勺」と記載されている土地が、土地台帳並びに登記簿上、いずれの土地に該当するかについては、国は左記のように解している(但し、この土地は本件係争地に関係はないが)。
(イ) 土地台帳(甲第四三号証の一ないし二五)の記載によると、一五九二番は現在、別表第三のように分筆されている。同表のうち、一五九二番の二九及び三〇の二筆はそれぞれ一五九二番の一九及び二〇の重複(面積、所有者ともに同一)と解される。
(ロ) 同表のうち、一五九二番の二、五ないし八の五筆合計五万九九〇坪は、昭和一三年二月七日、国が京浜電気鉄道株式会社から買収した土地である。別表第一の一五九二番の権利移転経過図中の一五九二番の二京浜電気鉄道名義の一七町歩即ち五万一〇〇〇坪と一〇坪の差があるのは、本件土地台帳は戦時中に作成された疎開用台帳から更に再製されたものであるので、それぞれの転記の際に、一五九二番の五の地積が一町六反一四歩であつたところを一町六反四歩と誤つたものと考える。
(ハ) そこで昭和一三年二月七日購入の五万三四三八坪八合八勺から、国が京浜電気鉄道から買収した一七町歩即ち五万一〇〇〇坪を差し引くと、その残は二四三八坪八合八勺であるが、これは隣接地である羽田穴守町に存在した同所一四四八番の一ないし六、一四四九番及び一四五〇番の土地合計二四三九坪が買収され、当時の取り扱いから京浜電気鉄道分と一括登録されたものである。
(七) 用語について
旧国有財産法施行規則第一号様式(国有財産台帳)の記載例に示されている「買入」なる用語は、「国有財産増減事由用語記載例」によるとその後「購入」に変更されていたものであるが、すでに昭和四、五年頃において使用されていたものであつて、そのことは国有財産増減報告書に「購入」の用語の記載があることから明らかであり、昭和五年当時記入の国有財産台帳に「購入」の用語があつても不思議ではない。
(八) 編綴方式について
本件国有財産台帳のとじ方は終戦以前に採用された正規の方式である。
(九) 証明力について
以上のとおり、野本治平ほか二名の疑惑はいわれなきものであり、本件国有財産台帳の記載事項と本件国有財産増減報告書の記載事項とを対照するときは本件国有財産台帳の記載事項は真実を証明するものということができる。
四、甲第二一号証の四の一四土地登記簿謄本写について
およそ訴訟代理人である弁護士が、存在しない登記簿謄本を存在するかのように装つて、故意に裁判所に証拠として提出し、しかもその訴訟において裁判所及び相手方代理人に発見されずに訴訟が完結するとは考えられない。従つてこの写には「証拠物写、本件立証ニ関係ヲ有スル部分ノミヲ抄録シタリ」と奥書し、弁護士安藤宇一郎の記名押印がなされているところから、その表題部に「一五九二番の一、五三町三反三畝一〇歩」の記載がないのは、同弁護士が副本作成にあたり写し洩らしたものと解される。また「抹消ニ係ラザル登記ノミヲ謄写ス」の意味は、現に効力を有する登記のみを謄写する趣旨と解するが、表題部二番は一番の変更登記であるところ、二番には土地の所在場所の記載がないので、謄本作成に際し一番を記載しないと土地の所在場所が不明となるところから記載したものと考えられる。このように、「抹消ニ係ラザル登記ノミヲ謄写ス」と付記されている登記簿謄本に現に効力を有しない登記の記載のなされることは事実上しばしばありうることであり、抹消部分が記載されていたからといつて、謄本の証明力には影響ない。
また、本書証は抄録であるから、表題部三番以下の表示が省略されている(以下余白の文字がないことから判る)ところから、この証拠だけでは一五九二番が分筆後更に合筆され、のちに一五九二番の一、五三町三反三畝一〇歩となつていつた経緯は明確ではないが、甲第二一号証の九の三、四によると、本書証が一五九二番の一に関するものであつたことは間違いなく、国としては、表題部五番以下において表題部の変更があり、昭和五年一月一七日当時においては一五九二番の一は雑種地五三町三反三畝一〇歩として土地台帳並びに登記簿上に表示されていたものと解するのである。その根拠は、甲第四三号証の一の土地台帳に、一五九二番の一逓信省用地五三町三反三畝一〇歩として登録されていることにある。
五、土地台帳謄本について
(一) 本件土地台帳について
これは、旧来の土地台帳が戦災で焼失したため、戦時中、疎開用に作成した土地台帳(最終の権利関係のみしか記載しなかつた)に基づいて再製したものであるが、これに欠点があるとすれば、一六〇八番及び一六〇九番の戦後の土地台帳にも欠点が存することとなる。
(二) 本件土地台帳に対する批難について
国有地が土地台帳に登載されないというのは、当初から国有である土地についてであつて、民有地から国有地になつたものについては、登記簿上、所有権移転登記を経由したのち、従来存する土地台帳に所有者変更の登録がなされるもので、そのあと、昭和二九年の法務省民事局長通達「土地台帳事務取扱い要領」により現在の取扱いとしては土地台帳を閉鎖するというにすぎない。そこで、右取扱要領以前の未閉鎖土地台帳については実務上そのままになつているものが多く、また旧地租法時代においては、国の買上げにより、民有土地の台帳は除租の取扱いをするために台帳の訂正がされるにすぎなかつたので、買上げ国有地につき除租の手続をしたままで土地台帳が存在する場合は多く、本件もその一事例である。
また、本件土地台帳によると、一五九二番の土地は現在、別表第三のとおり分筆されているが、国が分筆手続をしたものはない。
また、一五九二番の地積合計は、二三万四八二坪七五となることは既に述べたとおりで、これを武田忠臣の登記した一五九二番の地積七〇町六反四畝二二歩(二一万一九四二坪)にくらべると一万八五三〇坪七五(一割弱)の増加である。戦前の土地台帳が焼失した現在、右の地積増加の経緯を明確にすることは殆んど不可能であるが、実測に基づく増歩のほか、隣接地が合計されたことによるものとも解される。本件土地造成の経緯やその付近の地形よりして、明治三四年頃の公簿面積に対し、一割弱の増歩の生じることは充分考えられることであるし、現況の土地を実測すれば、公簿上の面積は充分存在するのであるから、何ら問題はないと考える。
第六、内務省登記の由来について
一、主張のような東京府の折橋芳郎、田中三四郎両名に対する一連の土地引渡手続は、東京府が明治二一年の東京控訴院判決の結果を完結する趣旨において、判決当時の権利者折橋政嘉(同人死亡につきその相続人芳郎)及び田中三四郎に向つて執行するのが妥当であり、現時の権利者武田忠臣は右両名から順次移転を求むればよいとの見解の下に芳郎、三四郎の両名に対してなしたもので、本件係争部分に関する限りは既に武田忠臣の所有し占有していた地域であつたから、東京府の右両名に対する手続一切は全て錯誤に基づく無効の法律行為であつたのである。
二、国の一六〇五番ないし一六〇七番の土地買収について
国が東亜港湾工業株式会社から、主張の土地五筆を主張の日に買い受け、所有権取得登記を了していることは認めるが、このことは、国が本件で、一六〇八番、一六〇九番を争うことと矛盾しない。一六〇五番ないし一六〇七番と本件一六〇八番、一六〇九番とがともに沿革を同じくした内務省登記であるとしても、その後の移転経緯を異にしているからである。
即ち、一六〇五番ないし一六〇七番の土地については武田忠臣は大正八年一一月、国を被告として東京地方裁判所に「払下ニ基ク権利継承確認並ニ払下ニ基ク権利ノ属スル場所指定請求」の訴を提起し、同番地が払下地の一部であつて自己の所有地であると主張したところ、確認の利益なしとして一、二審とも敗訴し、更に上告の結果、上告審では国(東京府知事)が明治三九年田中等に土地を引渡し移転登記をなしその状態を持続している以上、所有者たる地位に危険があり、確認の利益があるとの理由で破毀差戻となり、東京控訴院は昭和三年一月、一六〇五番ないし一六〇七番の土地が武田忠臣の承継人武田太郎の所有に属する旨の確認判決をした。
国はこれに対し上告したが、昭和三年七月、上告棄却により武田勝訴の判決は確定し、ここに、武田忠臣の承継人武田太郎の一六〇五番ないし一六〇七番の所有権が国に対し確認されたわけである。
次に、武田太郎は昭和二年、右一六〇五番ないし一六〇七番に名義を連ねる折橋芳郎ほか一二名を相手として東京地方裁判所に土地所有権確認並びに登記抹消請求の訴を提起しこれらの土地の権利は明治五年の払下げ人から転々し、明治二五年武田忠臣がこれを取得し、昭和元年、自分がこれを相続したものであるから、右土地に対して東京府がした明治三九年の保存登記折橋芳郎及び田中三四郎の所有権取得登記並びに以後の被告等名義の登記はすべて登記原因を欠く無効なものであると主張し抗争を続けたがこの間に、東京湾埋立株式会社(即ち現在の東亜港湾株式会社)は昭和四年三月一九日に、右の一六〇五番ないし一六〇七番の所有権者である武田太郎から右地番の土地を買い受けた。同会社はこの土地の円満取得を希望して出たため示談が進行し、その結果、それまで単なる登記名義人にすぎなかつた、右事件の被告等からそれぞれ所有権の移転登記を受けた。
ところで、当初実体的権利を伴なわない無効の登記も、その後、現在の実体的権利状態と合致するにいたつたときは、以後有効なものとなりうると解されるから、右の場合も、一六〇五番ないし一六〇七番は当初無効な登記であつたが、正当な権利者である武田忠臣の承継人である東亜港湾が右無効の登記の移転登記を受けた以上は、その登記自体も実体的権利と合致したことから有効な登記となつたと解される。そして、国は、このように有効となるにいたつた登記を有する正当な所有権者である同会社から、これらの土地を買収したものであるから、本件における従来の主張と矛盾するものではない。
(予備の主張に対する野本治平ほか二名の主張に対する国の反論)
第一、連合軍の接収と国の占有
本件一六万坪が昭和二〇年九月一一日、連合国軍最高司令官より日本国政府に対して発せられた覚書により同軍に接収され、昭和二七年七月一日、右の接収が解除されるまでの間、同軍が直接占有するにいたつたことは認めるが、逓信省航空局は同接収期間中も引き続き、旧国有財産法にいう公用財産としてこれを取り扱い、その用途を廃止したことはないのであるから、国はなお、接収期間中、同軍の占有支配を通じて間接占有を有していたものである。けだし、連合国軍の日本国政府又は同国民の財産に対する接収は、何らの権限もなくして占有権ないし本権を不法に奪取するというものではなく、占領目的を達成するため、被占領国又はその国民の権利に対し、占領軍の強制管理権を設定するというにすぎないのであつて、そのために被接収者は自己の権利を剥奪されるものではなく、依然としてなお所有権、賃借権、地上権等、占有すべき本権を保有しているのであり、連合国軍もこの点を充分に認識して接収を開始継続し、接収終了の場合はこれを本権の権利者に返還すべく予定していたのであるから、連合国軍と被接収者との間の法律関係は、占有代理人が本人に対して有する代理占有即ち間接占有の関係にあるものというべきである。
以上のとおりであるから、調達庁における組織機構上の変動は、国の占有態様に何らの異動を生ぜしめないことももちろんである。
第二、時効利益の放棄について
国が一時、野本治平と本件土地賃貸借契約を締結したことは事実だけれども、これが明らかに錯誤によつたものであることは請求の原因第四及び第五項に述べたとおりであり、羽田空港調査図は関係土地所有者の申し出を調査製図したもので土地配置図にすぎなく、実測に基づく境界の確定もなされていないのであるから、右の図面をもつて土地所有権の確認図面とは認められないばかりか、右図面では特に、野本治平の主張した一六〇八番、一六〇九番の土地については国所有の一五九二番の一の土地と併記されており、国において同人の土地所有権を確認してはいないし、買収計画も、単に国の機関の内部の立案にとどまり、野本治平に対し、買収の申し入れをしたことはなく、しかも、これらのことは国が時効完成の事実を知り、かつ、その利益を抛棄する意思をもつてしたものではないから、同人等の主張は認められない。
(野本治平及び江田重蔵の反訴請求の原因に対する国の答弁並びに主張)
第一、反訴請求の原因第一項について
一 記載の事実はすべて争う。
二 記載の事実中、権利の相続又は移転の事実は否認するが、その余の事実は認める。
三 記載の事実のあらましは認めるが、東京府の土地引渡しの事情については後述のとおりである。
四 記載の事実のうち、武田登記中番外一三番に該当する地所が当時陸地であつたことは認めるが、その余の事実は否認する。
五 記載の事実中、主張のような登記、登録のなされたことは認めるが、何ら所有権を伴わないものであることは既に述べたところである。
第二、反訴請求の原因第二項について
認める。
第三、反訴請求の原因第三項について
国が主張の登記をし、同人等の所有権を争うことは認めるが、その余の主張は争う。
第四、確定判決の存在と既判力
一、確定判決の存在について
一六〇八番、一六〇九番の登記については別表第二のような経過による所有権移転の記載がなされているが、その間、一六〇八番が鈴木久五郎、鈴木兵右衛門及び中村義四郎の、一六〇九番が中村伍作及び鈴木兵右衛門の各所有名義の当時明治四二年五月二四日、同人等は一五九二番の一の所有者武田忠臣、地上権者合名会社羽田組、一五九二番の二の所有者京浜電気鉄道株式会社を被告として、土地所有権確認及び引渡並びに一五九二番の一、二の登記抹消請求の訴を提起したところ、大正二年一二月二六日東京地方裁判所において、請求を棄却され、右鈴本等は控訴したが、大正七年五月一五日、控訴棄却の判決があり、その後、鈴木等敗訴の判決は確定した。
二、既判力の発生について
ところで、右確定判決の存在により、一六〇八番、一六〇九番の登記名義人である前記鈴木等が、右土地に対し何らの権利を有するものでないことについて既判力を生じ、従つて、右一六〇八番、一六〇九番の承継人である野本治平及び江田重蔵は、一五九二番の一、二の承継人である国に対して自己の所有権を主張することはできないものである。
たしかに、昭和四年一〇月一日施行の大正一五年法律第六一号による改正前の民事訴訟法(旧民訴法という)当時においては、大審院判例は、判決の既判力は当事者及びその一般承継人の間にのみ及び、特別の規定がないかぎり、特定承継人には及ばないと解していたが、当時といえども大方の学説は旧民訴法の解釈上、既判力は、当事者の一般承継人はもちろん、特定承継人にも及ぶべきものとしていた。その理由としては、権利の特定承継人に関しては、(イ)当事者と第三者との間に実体法上の従属関係ある場合には認めざるをえないし、更に(ロ)第五一九条(現行法と同じ)が「債権者ノ承継人ノ為ニ」と規定し、一般承継と特定承継とを区別していない点からも認めざるをえないとし、義務の特定承継人に関しては、一定の義務又は負担がある財産の所有権又は占有権が存在する場合に、その所有権又は占有権を取得した者は当然にその義務又は負担を承継するものとすべきであるとしていた。
旧民訴法当時において判例と学説がこのように相反するにいたつたのは既判力の主観的範囲に関する明文の規定(現行法第二〇一条の如き)がなかつたことによるのであるが、社会の発展、それに伴う社会生活の復雑化は、判決の第三者に対する効力の拡張を必須にし、起訴の費用、労力及び時間の節約訴訟経済、紛争の迅速な解決、更には訴訟制度を社会の発展に即応させるためには承継人概念を実質的に理解する必要があつた。
そこで、前記民事訴訟法改正により第二〇一条の規定を新設して旧民訴法のこの点の不備を補い承継人概念を明文をもつて確定したのである。
しかし、旧民訴法当時と新民訴法下において判決の既判力の主観的範囲について承継人理論に変更のあるべきでないことは前に論じたところであり、大審院も昭和五年四月二四日決定において旧民訴法下の事案について、確定判決の効力が特定承継人にも及ぶべきことを判示するにいたつている。これにより、大審院はさきの誤りを是正していると解すべきである。
(所有権確認と登記抹消手続を求める国の請求の原因に対する野本治平ほか二名の答弁)
第一、請求の原因第一項について
一記載の事実は認める。
二記載の見解は争う。
右両名の取得した権利は海面埋立権であつたと解すべきことは後に述べるとおりである。
三記載の事実は認める。主張の判決で確認された「権利」は海面埋立権である。
四記載の事実中、折橋政嘉の持分権利が折橋桂造に移転したこと及び田中三四郎が石黒堅三郎の権利承継人であることは認めるが、その余の事実は否認する。仮りに国の主張するその余の譲渡行為が形式上認められても、その間に仮装の譲渡行為が介在し、かつそれはその後、確認的に合意解除されているから効力がないこと、たとえ右が認められなくとも、海面埋立権の譲渡については官許を要するところ、それを得た者はないから結局、武田忠臣は何ら権利を取得していないことについては後に述べるとおりである。
五の(一)記載の事実は認める。その武田登記が種々の点から無効の登記であつたことについては後に述べるところである。
五の(二)記載の事実は否認する。
六の(一)記載の事実中、武田登記中、番外一三番の登記が一五九二番に変更登記されたことは認めるが、その余の分筆経過は否認する。
六の(二)及び(三)記載の各事実は否認する。
七記載の事実中、本件一六万坪の土地を、現在、国が東京国際空港の一部として使用していること、昭和二八年九月一七日、主張の保存登記をしたことは認めるが、その余の事実は全部否認する。その否認理由の詳細は後に述べるところである。
第二、請求の原因第二項について
一記載の事実中、折橋芳郎及び田中三四郎に権利がなかつたとの点を除き、その余の事実はすべて認める。右両名が正当な海面埋立権者であり、内務省登記が正当な登記であることについては後述するほか、野本治平及び江田重蔵の反訴請求の原因として述べるところと同一である。
二記載の事実は認める。
三記載の事実中、一六〇八番及び一六〇九番の登記と番外一三番即ち後の一五九二番の登記とが同一土地を表示したものであることは認めるが、現在、本件一六万坪を表示するものは一六〇八番及び一六〇九番の各一、四及び五の登記である。
第三、請求の原因第三項について
一記載の主張は争う。
二記載の事実即ち番外一三番の地所が一六〇八番及び一六〇九番の登記がなされる直前、陸地となつていたことは認めるが、その余の主張は争う。本件において土地所有権の二重譲渡の問題は生ぜず、従つてその二重譲渡の優劣を決する意味での二重登記の前後の問題を生じないことは後に述べるとおりである。
三記載の事実中、主張の登記を有し、本件一六万坪の所有権を争つていることは認める。
(不当利得金の返還を求める国の請求の原因に対する野本治平の答弁並びに主張)
第一、請求の原因第四項について
一記載の事実中、国主張の日に主張のような賃貸借契約を締結し、主張のとおりの賃料を受領し或いは返還したことは認めるが賃貸した土地は一六〇八番及び一六〇九番の各一、四及び五に該当する本件一六万坪の土地のほか一六〇八番及び一六〇九番の各六に該当する四万五二九一坪を含めたものである。
二記載の事実は否認する。
三記載の事実中、一六〇八番及び一六〇九番の土地の野本治平の前主が東京土地埋立株式会社であること及び、本件契約の締結は野本治平が病臥中のため代理人によつてなしたが、その際、国が契約土地の指示を急ぎ求めたので事実を知らない代理人が場当りの誤つた指示をした事実のあつたことは認めるが、その他の事実は否認する。
第二、国の重大な過失について
本件賃貸借契約締結当時一六〇八番及び一六〇九番の土地は野本治平の所有であつたから、右契約は有効に成立しているものであるが、もし、国の第一次の主張或いは予備の主張が認められ、右土地が国の所有地であつたとすれば、国には右契約の締結にあたり重大な過失があるから、要素の錯誤による無効を主張することはできないというべきである。即ち、国は、終戦後、羽田飛行場用地に対し所有権を有するとは夢想だにしていなかつた。当時、国は国有財産台帳を保管していたというのであるし、土地台帳も存したというのであるし、文書の性格、所管庁の性格からして国家が当然調査すべき自己掌中の文書の存在を知らなかつたということは非常識である。そして、連合軍による接収の後、国は新聞広告により羽田飛行場用地の所有権者にその申し出ることを促したのに、航空局は昭和初年からこれを所有し管理して来たと称しているのに右催告に対し何らの申し入れもせず、異議を唱えることもしなかつた。これは国が国有地について、その管理把握の責務を自ら放棄し或いは怠り、他に所有権者を求めたもので、重大な過失であるといわねばならない。
(国の予備の主張に対する野本治平ほか二名の答弁及び主張)
第一、請求の原因第五項について
一ないし三記載の事実中、逓信省告示第一七一〇号の告示された昭和六年八月二一日以後昭和二〇年九月一〇日までの間、国が本件一六万坪の土地を占有していたことは認めるが、その余の事実は否認する。本件紛争の経緯から見ても、また国に作成、維持の責務ある登記簿上から見ても本件一六万坪の土地上には既に二重の登記の問題があることは国の知つていたはずのもので、国はその占有の開始にあたり、右土地に所有権がないこと、少くともその存否について疑いをもつていたというべきであり、もし善意だつたとすれば、そのことに重大な過失がある。また、本件一六万坪の占める位置、面積、その重要性からしても、もし国が所有者だと信じていたのであれば、その管理についても少し現実的具体的な把握を示す事実と資料とを有しなければならないのに、国は、既に無価値と判断される国有財産台帳等を有するだけで他に的確な資料は有しないところからすれば、国に所有の意思もなかつたというべきである。
第二、連合軍の接収による国の占有喪失
また、国の主張する二〇年の時効は、昭和二〇年九月一一日、連合国最高司令官覚書による連合国軍の接収により自然中断している。即ち、本件一六万坪の土地は戦時下において重要な軍需施設たる飛行場であつたもので、終戦直後の連合国軍の接収は国が請求原因第四項五に述べるような極めて排他的な「専管」体制をしいたものであるから、民法第一六四条にいう占有を奪われた場合といわなければならないからである。国は右の接収によつてもなお間接占有関係は国にあると主張するが、右土地が既に国の所有でなかつたことを前提とする予備の主張において、本来、何らの占有権限がない国に間接占有を認めることはできない。なお、当時における接収業務は国から独立している公法人特別調達庁によつて取り扱われていたから、この点からも、国の間接占有論は理由がなく、国の占有が自然中断していることは疑いない。
第三、国の時効利益の放棄
またもし、国の主張する一〇年又は二〇年の時効が完成していたとしても、国はその完成後である昭和二五年三月三〇日野本治平の本件土地に対する所有権を認めて賃貸借契約を締結し、昭和二八年三月三一日まで賃料を支払い、附和二八年二月には東京調達局と運輸省航空局共同で調査測量した羽田空港調査図を示して同人の確認を求め、同人に確認書を提出させるという同人の所有権の再確認行為をし、更に国においては昭和二九年度予算をもつて同人から本件土地を買収する計画までたてた等の多くの事実があるが、国としては、充分検討調査のうえ、これらのことをしたのであるから、国は、すでに完成していた本件土地に対する時効の利益を放棄していたものというべきである。
(所有権確認と登記抹消手続を求める国の請求の原因に対する野本治平ほか二名の主張並びに国の反論に対する再反論)
第一、折橋政嘉及び石黒堅三郎の取得した権利は所有権と同一実質のものではありえない。
一、明治初年において土地所有権概念は存在しなかつた。
(一) 明治五年の太政官布告第五〇号は寛永二〇年三月一一日将軍家光の名で発布された「田畑永代売御仕置覚書」と題する世に所謂「田畑永代売買の禁」を解除する趣旨のものであつたが、その意義について、明治一三年二月一七日付司法省内訓は「明治五年第五十号布告以前ニアリテハ凡ソ土地ナルモノハ人民ノ私有ニアラザリシハ固ヨリ言ヲ俟タザルナリ故ニ人民ハ唯之ヲ使用シテ其ノ利得ヲ収納セシニ過ギザリシニ該布告ヲ以テ始テ其ノ借有土地ヲ各人民ノ私有ニ帰セシメタルハ実ニ行政上特別ノ恩典ニ出デタルモノトス」と明言しているが、明治一三年にいたつてなお、司法省はこのように理解していたということは、旧幕ないし維新前後の体制下において土地所有権概念が存在しなかつたことの有力な証左ということができる。そもそも、田畑永代売買の禁令は苛酷を極めたもので、かつ、明治五年に失効するまで実に二四〇余年という間、日本国中に通用した一大禁令であつたから、このような禁令のもとで、当時の人々の間に今日にいうような土地所有権の観念が存在しえたはずがなく、かえつて、人々の間には古くから、前記の司法省内訓に示されたような、土地は人民の私有に非ずして人民は唯之を借用してその利得を収納せしに過ぎずという考えが確信として存在していたのである。そして、このような土地は天皇ないし国家の総有するところという考え、人々は直接間接、これを預つて使用収益するのにすぎないという思想は、明治の中葉になつて欧州法の洗礼を受けるまで、根強く、人々の心奥に培われて来たのであるが、徳川時代の公文書中において「御預り地」ないし「上ノ御田畑ヲ耕シ」といつた言葉を常に目にするというのも、このような考えの顕れたものにほかならないのである。
(二) このような土地に対する人々の考え方は明治維新の政権交替だけで変革されるはずのものではなかつた。明治五年二月一五日、太政官布告第五〇号に引き続いて同月二四日大蔵省達第二五号「地所売買譲渡ニ付地券渡方規則」が公布施行された。これが「地租改正」と称されるものであるが、これとても、所有権はなくして納税義務だけはあつた封建治下の土地課税形態を近代に一歩前進させ課税基準を明確にすることに重点があつたのであり、義務観念のみ旺盛で権利思想は極めて稀薄であつた当時において、この事実からだけで土地所有権の観念が確立されたと見ることは早計で、このときより年月を経て、現行法にいうような所有権の観念は定立されたのである。
(三) 従つて、折橋政嘉が民部省に地所埋立開墾についての建白書を提出した明治三年、同人と石黒堅三郎が開拓願を品川県に提出した明治四年、これらの出願に対して、東京府が同人等に埋立開墾を許可した明治五年当時、土地に対する所有権概念はまだ存在しないかないしは未成熟だつたのであり、同人等が国の主張するような所有権と同一の実質を有する排他的な総括支配権を取得したとは考えられない。
二、海面は所有権の対象となりえない。
(一) 土地と海面との境界は最高潮時における水陸の分界点にあるとすることは既に是認された見解である。それは「蓋シ年々月々時ニハ日々夜々潮水ノ浸漫スル場所ハ吾人カ土地トシテ利用スルニ適セサルモノ」(大正三年一二月三日釜山地方法院判決)だからであり、また「土地所有権ハ法令ノ制限内ニ於テ自由ニ土地ノ使用収益処分ヲ為ス権利ニシテ其土地ノ上下ニ及フヲ以テ其本質トシ公有物ハ一般公衆ノ使用ニ供シ私人ノ独占ヲ許ササルヲ以テ其本質トス満潮ハ日時及季節ニ依リ高低ノ差アリト雖モ最高満潮時ニ於テ潮水ノ浸入スル区域ハ其浸入セサル区域ニ比シ之レカ保存ノ方法並ニ使用収益ノ方法ニ付自ラ異ナルカ故ニ土地本来ノ性質トハ大ニ其趣ヲ異ニスル所アルヲ認メサルヲ得サルト同時ニ最高潮時ニ於テ潮水ノ浸入スル区域ハ其自然ノ状態ニ於テ公衆ノ使用ニ供シ官ノ許可ヲ受クルニ非サレハ私人ノ独占ヲ許ササルモノト為スヲ以テ社会生活上ノ通念トス」(大正五年五月九日朝鮮高等法院判決)るからである。大正一一年四月二〇日発土第一一号各省次官宛内務次官通牒(同日発土第三五号各地方長官宛土木局長通牒)が「陸地ト公有水面トノ境界ハ潮汐干満ノ差アル水面ニ在リテハ春分秋分ニ於ケル満潮位、其ノ他ノ水流水面ニ在リテハ高水位ヲ標準トシテ之ヲ定ムルモノトス」とした趣旨も、この当然のことを明らかにしたものにほかならない。
(二) そして、海面が所有権の対象となりえないことは私法上の通念であり、大審院大正四年一二月二八日判決も「海面ハ行政上ノ処分ニ因リ一定ノ区域ヲ限リ私人ニ之カ使用又ハ埋立開墾ノ権利ヲ得セシムルコトアルハ勿論ナリト雖モ海面ノ儘之ヲ私人ノ所有ト為スコトヲ得サルハ古今ニ通スル当然ノ条理ナリ」といい、行政裁判所昭和一五年六月二九日判決も「海面ハ所有権ノ目的トナルコトナキハ当然ノコトナルヲ以テ公有水面ノ埋立ニ於テ地方長官ハ海面ニ付キ仮リニ所有ヲ認定スルトモ其ノ認定ハ無効ナルモノト云ハサルヘカラス」といつて、このことを確定的に肯定している。
(三) ところで、本件払下げ目的物は、常時水中にあつた部分六〇町歩を含め、満潮時にはほぼ全域が海水面下に入るところであつた。従つて、「土地」ないし「陸地」といえるところではなく、「海」ないし「海面」と総称すべきところである。明治二一年の東京控訴院判決もその理由の中で、右の払下げ場所について、「該論所ノ如ク当時海面等ニシテ未タ土地ヲ成ササルモノ」と判断している。
してみると、このような海面について国の主張するような所有権と同一の実質を有する支配権の成立しえないことは明らかである。
三、本件払下げ海面は区域が特定していなかつた。
かりに、海面も所有権の対象となると解しても、「物」として特定でき、これを排他的に支配できる可能性のあることが前提である。しかるに、本件海面については、払い下げ区域は特定していなかつたから、これについて所有権は成立しえなかつたのである。
即ち、払い下げ海面は「約一五〇町歩」であつたのであり、しかも明治四年一二月一五日、折橋政嘉、石黒堅三郎の両名から荏原郡羽田村同猟師町鈴木新田役人宛「為取替証之写」(乙第一七号証)に「鈴木新田地先ヨリ糀谷村大森両村境外壱度境界迄海面長延凡千五百間横平均四百五十間程ノ場所寄洲地盤ニ応シ開墾地ニ見立候ニ付」と記載したくだりがあることからすると、右の約二二五町歩のうちに本件海面約一五〇町歩が払い下げ許可になつたことが推測されるのである。そして、東京府知事においても、本件払い下げ海面の区域がいずれの場所であるのか判然しないと、乙第二六号証の二、同第二九号証の一、三及び四、同第三一号証の二、同第三二号証の一、及び同第三三号証の二の各文書で強調していることなど考えると、本件払い下げ海面は区域が不明確で「物」として特定していなかつたことは明らかで、これについて国の主張するような支配権が成立できないのは当然である。
第二、折橋政嘉及び石黒堅三郎の取得した権利は海面(公有水面)埋立権である。
一、両名は明治初年における慣行法制に則つた海面埋立権の付与を受けたものである。
(一) 海面は本来、公物である。明治初年における公の見解として、明治八年一二月九日太政官布告第一九五号は「従来人民ニ於テ海面ヲ区画シ、捕魚採藻等ノ為所用致居候者モ有之候処右ハ固ヨリ官有ニシテ本年二月第二三号布告以後ハ所用ノ権無之候条従前ノ通所用致度者ハ前文布告但書ニ準シ借用ノ儀其管轄庁へ可願出此旨布告候事」と海面が官有であることを宣言している。
ところで、公物である以上、その物の存在は単に経済的価値を現わすものではなく、直接に公の目的に供されるという本来的性格から、その公の目的に必要な限度で私法の適用を排除し、特別の公法的規律に服させる必要が生じる。従つて、今日においても往時においても、公物たる海面について一定の工作ないし埋立等を施そうとするときは、特許、免許等、名はどのようなものであつても、何らかのこれを許可する旨の官の意思表示(行政行為)を必要としたものである。
(二) そこで、旧幕藩体制下の海面埋立制度を概観するに、これについては、次の大阪控訴院大正七年二月二〇日判決の判文から知ることができる。即ち、
「旧幕府時代ニ於ケル大阪湾沿岸ノ新田開発ニ関スル事務ハ代官ノ司掌スル所ニ係リ私人ヨリ一定区域ニ付新田開発ノ出願アルトキハ代官ハ水利隣地関係其他開発ニ関連スル諸般ノ事項ヲ調査シタル上之ヲ許可スヘキモノト認ムルトキハ埋立免許ノ区域ヲ定メ其ノ面積ヲ概算シ一定ノ金額ヲ上納セシム。新田開発ノ許可ヲ受ケタル者即開発権利者ハ其ノ受ケタル許可ノ趣旨ニ従ヒ大繩地ノ埋立ヲ為シ其ノ全部又一部ノ埋立ヲ竣功セルトキハ代官ニ於テ検地高入ヲナシ検地帖(又ハ水帖ト称ス)ヲ作用ス。所謂検地高入トハ既ニ新田トナレル大繩地ヲ実験シ其反別、地目、土地ノ上下ノ等級即田品及石高即輪租ノ基準ヲ決定スルコトヲ意味シ検地帖トハ此ノ決定事項ヲ登録スル公簿ヲ指称ス」
このように、確立した慣習法の規制のもとに、海面埋立が行われていたのであるが、このことは、乙第五六号証(埋立開墾の歴史及びその本質について論じた無表題の文書)によつても裏付けられる。即ち、右文書には、
「明治五年八月中東京府より折橋政嘉外壱名が払下を受けたる東京府武蔵国荏原郡鈴木新田糀谷地先寄洲並に海面の壱百五拾町歩余は其以前各藩に於て(開墾奨励の趣意より)野竿新田と称し藩士が御礼銭又は冥加銭等の名義を以て些少の金銭を上納いたし鍬下年期を定め開墾許可を得たる旨趣に基き代金弐百弐拾五円也を以開墾払下を出願仕り許可相受候地所に有之り代金となるは即御礼銭冥加銭の意味に候故に東京府庁に対し受書差し出し有之候文に曰(前略)願の金高を以御払下相成候間開墾成就の上代金増方可申上且地所の義は追而御引渡可相成旨被仰渡承知奉畏候依之御請申上候也壬申八月廿八日とあり。野竿新田の当時は開墾成就の上は検地を以小高帳を受けたるものなれば(小高帳とは以前の地券の如し)右受書に基き開墾成就の上は臨検を請地所引渡を了するものに有之り現今の公有水面埋立権利と同一に御座候也とあり、旧幕藩体制時の海面埋立について物語つている。」
(三) ところで、水面埋立に関しては、明治一三年三月四日各府県宛内務省地理局通知水面埋立規則が制定されるまでは何ら法令の規定するところがなく、単に行政庁の自由処分に一任されていたのであるが、その間といえども大体において、右の地理局通知、明治二三年一〇月二〇日内務省訓令第三六号公有水面埋立及使用免許取扱方、同年一一月二四日勅令第二七六号官有地取扱規則及び現行の公有水面埋立法と一貫した手続規制と異なる主義をとつたものではない。
即ち、水面埋立に関する成文の規制が行われる以前より、人民の水面埋立の出願に対しては、開墾奨勧の趣意から、水利関係、隣地関係等調査の上で官許を与えること並びにこの官許を与えるについては一定の免租年季(鍬下年季)を定め、その年季中は無税であること、埋立竣功後は官許により無代価にて該地上に一定の権利(土地上の私有権の認められなかつた当時としては一種の借用権、使用権)を下渡すこと、また埋立許可を受けるに際しては多少の上納金(冥加金、御礼銭又は地代金(銀)ともいわれた)を納めること等の不文の慣行が旧幕時代から行われていたのである。そして、右の慣行がそのまま明治一三年の前記地理局通知を最初として成文化されるにいたつたのである。
このように、往時から今日まで一貫して、埋立の許可と埋立完成後の権利の付与とをそれぞれ別個の行政処分によりなして来たのも、埋立の許可が主として国利民福のために行われるもので、埋立完成の成否の間に埋立許可地に権利を与ええないことに基づくもので、本件払下げもこの当然の慣行法制に則り、折橋、石黒の両名に埋立の許可を与えたものである。乙第一八ないし第二〇号証及び第二一号証の一ないし三も、当時右に述べたような法理の存在したことを示すものである。
二、折橋、石黒両名の出願の趣旨も当時の慣行法制によつたものである。
折橋、石黒両名の出願の趣旨は海面埋立開墾の許可権の付与を願い出たもので、海面上の所有権を付与されたいと願い出たものではなかつた。即ち、
折橋政嘉が明治三年三月、東京府を経て民部省宛提出した建言書(乙第一五号証の二)及び添付の開墾見込地取調報告書(乙第一五号証の三)、同年一一月、民部省宛提出した地所開拓見積書(乙第一五号証の四)及び同年一二月一七日、民部省宛提出した御内窺書(乙第一五号証の九)、同人及び石黒堅三郎が明治四年九月、品川県に提出した願書(乙第一五号証の五)及び右願書に付した金沢県の奥書(乙第一五号証の六)、同年一一月付の開墾地仕立目論見(乙第一五号証の七)、同じく同年一一月、右両名から品川県宛の開墾方願書(乙第一五号証の八)の各趣旨は一貫して、いずれも埋立開墾の願意を強調しているのであり、このような一貫した埋立開墾の願書の終局として、明治五年八月二八日、両名が東京府宛に提出した「御請」と題する書面(乙第一五号証の一五)の末尾には「且場所之義ハ追テ御引渡可相成旨被仰渡承知奉畏候」と記載しているところからみても、両名としては、前述の不文の慣行法制に則り、埋立権の許可を請け、埋立完成後は改めて土地引渡の官許(行政処分)を求めるの意であつたことが明らかである。
三、右出願に対する東京府の取扱いも同様である。
折橋、石黒両名のこの一貫した願意に応じて、明治四年一二月付で東京府から大蔵省宛に提出された武州鈴木新田外二ケ村地先開拓之義伺書(乙第一五号証)の一〇によれば、東京府は折橋等の出願事項を埋立開墾であるとして、大蔵省との間にその取扱いを協議し、遂に、明治五年八月二八日、願の通り、両名に海面約一五〇町歩の埋立開墾を許可したのである。
四、二、三の用語について
もつとも、以上の一連の願書、報告書ないし公文書の類のうちには「払下」、「地代」、「鍬下年季」等の語が使用されているので、これらの用語が所有権の付与ないしはその代価を意味したのではないかとの疑いを生じる恐れがあるので説明する。
(一) 「払下」の意義
「払下」或いは「下渡」という言葉は、前述のように所有権の観念のなかつた封建時代から使用されていたのであるから、その意義内容について、今日の法律観念に従つて所有権の移転と解するのは早計であり誤りである。特に、徳川時代は、武断専制の常として法制上の用語は官の機構と同様、簡潔であり、官民関係の第一義をその身分階級の差に置き、この間に使用される用語も権威主義的色彩を帯びることは自然の成行であつて、この言葉の重点も、支配者から人民に「下げる」ことにあり、二者の間で権利権能が移転する点はむしろ第二義であつた。
本件証拠において「払下」の語は明治五年一月二七日付大蔵省の指令書(乙第一五号証の一一)に見えるのであるが、これは明治四年一二月の東京府からの伺書(乙第一五号証の一〇)に対する回答であり、この東京府の伺書たるや、明治三年以来、折橋等の再三の開拓願(乙第一五号証の二ないし五、及び七ないし九)に対するもので、この開拓願に対し、海面埋立を許可する趣旨を「御払下に可取計事」と権高い調子で指令したまでのものであり、右の指令書が、わが国において土地所有権を一応、とり決めようとの動きのいとぐちとなつた太政官布告第五〇号より以前の作成であること、その払下げの客体が海面であつたことからも、そこにいう「御払下」をもつて、所有権の移転と解しえないことは明らかである。
(二) 「地代」の意義
これは、譲渡代金ではなく、折橋等から官に対する、前述の旧幕藩体制の頃からの埋立開墾許可に対する御礼銭、冥加金ともいうべき一種の上納金である。
即ち、本件証拠において、前出明治四年一二月東京府から大蔵省宛の伺書に「但無地代受の積」という記載があり、また右伺書に対する前出明治五年一月二七日大蔵省の指令書に「書面無地代受之儀者難成」及び「相当之地代金ヲ以テ」という記載があるが、右書面の作成された当時は、太政官布告第五〇号はまだ布告されていず、所有権の観念が官民ともに念頭になかつたことは前述のとおりであるし、右書面中、「地代」が云々されているのはすべて折橋等の埋立開墾の願に対し許可を与えるについてであることから、官においては、埋立開墾を許可するにあたり、折橋等から「地代」又は「地代金」と称しつつ一種の金銭を収納しようとしたものであることが明らかである。そして、これが当時の慣行であつたことは既に述べたところであるが、前掲の大正七年二月二〇日大阪控訴院判決も旧幕時代の新田開発について、
「所謂大繩場、大繩地、大繩受(請)地トハ埋立許可ノ区域ヲ指称シ大繩反別トハ其概測面積ヲ意味シ又地代銀トハ右上納金ノ通称ナリ……此許可ニ際シ上納スル地代銀ハ地頭及開発出願人間ニ於ケル大繩地ノ売買代金ニ非サルハ勿論該出願人カ開発許可ニ因リ大繩地ニ付キ取得スヘキ私権ノ時価ニモ非スシテ畢竟開発特殊ニ関シ課セラルヘキ冥加金即一種ノ小物成ニ外ナラサルヲ以テ地代銀上納ノ一事ニヨリ開発許可ト同時ニ大繩地全部ニ付キ当然総括的支配権ヲ取得スルモノナリト論断スルヲ得ス」
と判示している。
現行の公有水面埋立法第一二条にいわゆる「免許料」というのも、往時のこの地代銀ないし地代金と称されたものにほかならない。
(三) 「鍬下年季」の意義
鍬下ないし鍬下年期(季)というのは、往昔から、水面埋立、荒地開墾等の場合の年貢、免除の期間の意味で使われて来たもので、明治時代になつて、旧幕下の田租、年貢が地租と呼ばれるようになつてからは、水面埋立ないし荒地開墾の場合の地租免除期間の意味で使用されたものである。この語には、一定期間経過後、何らの行政処分を経ないで埋立地、開墾地の所有権が埋立人、開墾人に帰属するにいたるというような意味は全くないのである。
第三、武田忠臣は何らの権利も取得していない
一、仮装譲渡行為の介在について
明治二二年一一月一二日折橋桂造後見人松井太三郎外二名より宮本甚蔵宛の土地所有権利譲渡証書(乙第五四号証の二)、同年一二月五日折橋桂造母牧村いろ外二名の代人宮本甚蔵に対する委任状(乙第五四号証の三)、同年一一月一二日宮本甚蔵より松井太三郎外二名宛の為取換約定証書(乙第五四号証の四)等によれば、折橋桂造は自己の権利を宮本甚蔵に譲渡したかのようであるが、右の譲渡行為は、明治三六年一二月二日、折橋芳郎より東京府知事宛の上申書(乙第五四号証の一)及び明治三七年七月二〇日、折橋芳郎、田中三四郎連名の東京府知事宛再上申書(乙第五五号証)に明らかなように、全くの仮装譲渡で本来、効力の生じなかつたものであるばかりか、これを双方協議の上で確認的に解除している。即ち、乙第五四号証の三の末尾の後見人松井太三郎の氏名と印、宮本甚蔵の印がそれぞれ抹消されていること、同じく、乙第五四号証の四末尾の宮本甚蔵の印が抹消されていることから、このことが認められる。してみると、宮本甚蔵から以後、武田忠臣までの間の譲渡行為は、たとえあつたとしても全ていかなる権利をも伴はない無効のものにすぎないのである。
二、権利譲渡について官許のないことについて
仮りに、折橋桂造から武田忠臣にいたる譲渡行為が外形上あつたとしても、譲渡されたものは埋立権であるから、有効な譲渡の要件として官の許可が必要であるのに、国はこの官許があつたことについて主張も立証もしない。従つて、武田忠臣は結局、無権利者である。
第四、武田登記は無効の保存登記である
一、海面についてなされた登記である。
明治三〇年三月二六日宮城控訴院判決は理由中で、「被控訴人ニ於テハ右場所ハ大抵海面ナルヲ以テ登記ヲ為スヘキモノニ非スト云フモ甲第六号乃至第八号証ニ参照スレハ今日已ニ陸地ニ形成シ海面ナラサル事ヲ認ム可ク……」と判示しているが、これは武田忠臣の作為に誤られたものであつて、当時、まだ本件払下げ目的物は陸地ではなかつた。
即ち、右判決理由中の甲第六号証にあたる本件乙第四〇号証の一の証明書、同じく甲第八号証にあたる本件乙第四〇号証の二の証明書は、その証明をした指田嘉右衛門において東京府から不審の点ありとして実況を答申することを求められ、明治三〇年二月一五日、遂に同人は現時の状況を図面をもつて答申したが、それによると、武田登記中、番外一三番にあたる丙開墾地七〇町五反八畝一〇歩は「初メヨリ開墾着手セス」という海面区域であつたことが認められる。
ところで、その後、武田登記がなされるにいたるまでの間に別段の埋立はなされていないから、依然海面であつたことにかわりはない。そして海面について登記しえないことは余りにも自明のことに属する。
二、不特定の区域についてなされた登記である。
区域が不特定であつたことは既に述べたところで、武田登記のなされた時においてもまだ特定されていなかつたから、このような不特定区域を登記することはできない。
三、無権利者によつてなされた登記である。
武田忠臣が何らの権利を有しないことは既に述べたとおりである。
同人は片野重久に対する地所所有権確認事件(これは両者の馴合訴訟であつたが)で勝訴し、この判決によつて武田登記をしたのであるが、片野重久において無権利者であることが既に述べたところから明らかである以上、同人から武田忠臣は権利を譲り受けることはできないから、右判決は確認の効を生じていない。
四、まだ官による所有権の設定されていないものについてなされた登記である。
明治五年、払い下げの権利が埋立権であること、従つてこれの譲渡について官許の必要なことは既に述べたが、埋立竣功後の埋立地に所有権を設定するためにも官許が必要である。しかるに、武田登記のなされたときにおいて客体は海であつたことも前述のとおりで、埋立竣功による埋立地に対する官の所有権設定もありえないところであり、このような土地所有権の成立以前に、不存在の所有権についてなされた登記は本来、無意味で無効のものである。
前記所有権確認判決も、このような客観的に所有権の対象となりえないものの上に所有権を創造したり、その帰属を確定する効力は有しない。
従つて、本件においては同一土地所有権を二重に登記したという問題は起こらない。甲の保存登記が所有権発生前(例えば建物の建築前)になされ、乙の保存登記が所有権の成立後(例えば建物の建築後)になされたときは同一所有権についての二重登記とはいえず、乙の保存登記をするについては本来無意味な甲の保存登記を抹消することも必要ではないのである。
第五、国が本件飛行場用地を購入した事実はない。
一、決算報告書に記載がないことについて
国は、本件用地を昭和四年一二月二八日、代金二〇一万六〇〇〇円にて購入し、昭和五年一月一七日移転登記を了したと主張しているけれども、右の金額が当時、国庫から支出された形跡はない。もし、国の主張するとおりならば、右の売買代金は当該年度予算に計上され、また支出については当該年度決算書に明確になつているはずのものであることは、当時すでに、憲法並びに会計法令に従い確固たる予算決算制度が存し、運用されていたことから当然のことであるが、これが予算に計上され、支出について決算された事実はない。
このことについて、会計検査院は、別紙照会事項<省略>一ないし五のとおりの照会に対し、別紙のとおりの回答<省略>をした。それによると、昭和二年度から昭和六年度までの逓信省所管航空路設置費の年度別決算額は照会事項添付の別表のとおりであり、昭和二年度から昭和四年度までの逓信省所管経費決算報告書中、航空路設置費予算の翌年度繰越事由については、それぞれ照会事項添付の別紙第一ないし第三のとおりの繰越事由説明が記載されていることが明らかである。
そこで、もし、国の主張のとおりの代金支出があるならば、照会事項添付の別表又は別紙中にその形跡をとどめるはずのものである。そこで検討してみるのに、まず航空路設置費というものは、逓信省関係においては昭和二年度においてはじめて設けられ、予、決算書上の一款とされるにいたつたものであるが、この款としての航空路設置費は別表記載の年度間にあつては航空路設置費という一つの項のみから成り立ち、この項としての航空路設置費は、奏任俸給、判任俸給、事務費、工事費、賞与等のうち、それぞれ年度により各三ないし五目から成り立つていたのである。そして、この奏、判任俸給、賞与、事務費等の各目は、その目の名称自体でその包含する内容を知りうるところであり、別表と別紙を通覧するとき、およそ、飛行場用地の買収費のごときものは必ずや工事費のうちに包含されるものであろうことが看取されるのである。そしてまた航空路設置費が昭和二年度にはじめて逓信省予算として設けられて以後、右予算の使途は全国的な航空路開発設置並びにこれに関する諸施設に向けられていたことも、別紙第一ないし第三の説明文の記載が如実に物語つているところである。
しかるに、別表によると、昭和四年度における工事費の現実支出を示す支出済額は八〇万九七八八円八一銭(航空路設置費全体の支出済額八五万五、一五〇円四一銭)であり、これを要するに、昭和四年度逓信省所管航空路設置費予算は現実に使用された総額を投じても国主張の本件飛行場用地買収代金に満たないことを示すものであり、しかも、右の予算支出が当時、全国的な飛行場関係費用に分散使用されていること、それにもかかわらず、同年度の予算不用に帰した額が航空路設置費全体として四九万余円、工事費のみで四六万余円が計上されていることを考えると、到底、国の主張する買収代金を、この昭和四年度の工事費から支出しうるものではないのである。
或いは国は昭和四、五両年の二回にわたり買収代金を支出したと主張するかも知れない。
昭和五年度は総予算不成立に帰した年であり、憲法の条規により前年度予算が施行されたため、その結果、航空路設置費予算についても殆んど昭和四年度とへだたりのない数額を示すこととなつたが、別表によると、昭和五年度における工事費の支出済額は七三万八、二四四円八銭(航空路設置費全体の支出済額七六万三、〇六九円八七銭)であり、同年度もこれが全国的な航空路施設関係に分散支出されたことは明らかであるが、昭和四、五年とも、このような分散支出が一切無かつたとして、両年度の工事費支出済額を合計してみても一五四万八、〇三二円八九銭、両年度の航空路設置費全体の支出済額を合計しても一六一万八、二二〇円二八銭に止まり、この全額を本件用地購入費に投じてもなお不足するのである。ところが、実際には、右工事費は全国的な航空路関係施設費用に分散支出されていることが明らかである以上、その残余は皆無又は極めて僅少な額となり、到底、国の主張するような二〇一万六、〇〇〇円という、当時として巨額の買収代金の支出を包含しうるものではない。
以上によつて、国が本件飛行場用地を購入した事実のないことは明らかである。
なお、会計検査院はその回答において、「飛行場用地の買収費のすべてが逓信省所管(款)航空路設置費(項)航空路設置費だけに積算されていたかどうかは明らかでありません。」と述べているが、当時、すでに予算制度は確立し、運用されていたことは既に述べたとおりで、帝国憲法第六章「会計」がその根幹であり、各省予決算は各国務大臣所管事務毎に区分されて構成されたのであり、外務省、逓信省、鉄道省等各予決算の区分はそれぞれ所管事務に応じて判然区別されていたのであるが、ひとり各省予、決算の区分のみならず各省所管の予算中においても勝手な流用は厳に禁じられていたのである。大正一〇年法律第四二号会計法(旧法)第一四条第二項は、「国務大臣ハ予算ニ定メタル目的ノ外ニ定額ヲ使用シ又ハ各項ノ金額ヲ彼此流用スルコトヲ得ス」としている。およそ「予算に定めたる目的」とは、その所管事務自体及び予算制度上自から明らかであつて、この一定の目的外に予算定額を使用することは、禁止され、また各項の金額の彼此流用も厳禁されていたのである。右の法文上明らかなように、所管大臣は項内各目間の金額を彼此流用することを許されていたが、これもまた、予算に定めた目的の外に定額を使用してはならないと定められていたのであり、しかも、このような目間の流用は、後に必ず決算書上、流用増減欄にその数額が記載せられ、会計検査院の検査確定を経て、更に帝国議会の審査を受けるものであつたこと(帝国憲法第七二条)は、本件照会事項添付の別表のうち昭和三年及び昭和六年度の(目)工事費の流用増減欄によつても明らかであることを考えると、右会計検査院の回答文は事なかれ主義に過ぎた態度であり、また当時の予、決算制度に対する不理解を示すものである。
なおまた、東京飛行場は昭和四年四月一日逓信省告示第九七八号をもつて府中北多摩郡立川町に設置され、その後、昭和六年八月二一日逓信省告示第一七一〇号をもつて本件の府下荏原郡羽田町に所在を変更したのであるから、別紙第一に東京仮飛行場とあるのが、本件羽田飛行場用地と無関係であることはもちろんのことである。
二、国有財産増減報告書の証明力について
国は、以上のことについて、国有財産増減報告書を証拠として提出している。これによれば、国の主張するような土地坪数と価格の記入がみられる。しかし、この報告書は国の内部機関相互間の一つの報告文書にすぎず、しかもどのような根拠に基づいてこのような事実が記載されたかも一切不明であるからこれだけで国の主張の裏付けとなるものではない。このような増減報告書にこのような記載があつて、しかも当該年度の予、決算書にはなんらこれを推知せしめるほどのものさえ発見しえないということは、そのこと自体、奇怪なことと考えられるのであるが、それはともかく、国が巨額の土地を購入したと主張しながら、予、決算書上にその記載が顕われていないということでは、帝国憲法第六四条第七二条の明文に照らしても、要するに国は当該支出をしなかつたということに帰結するのである。
三、国有財産台帳の証拠力と証明力について
(一) 作成時期について
国は、本件東京飛行場用地について、国が所有権取得登記をした昭和五年一月一七日に国有財産台帳も作成備え付けられたと主張し、右台帳によつて、国の本件用地買収の事実を立証しようとしている。しかしながら、右台帳は法律上あるべき姿に作成されていないし、その作成時期、記載内容にも多くの疑いがあるので、その記載事実をもつて国の主張の裏付けとすることはできない。
東京飛行場は、まず昭和四年四月一日逓信省告示第九七八号によつて東京府北多摩郡立川町字古新田に設置され、次いで昭和六年八月二一日、同省告示第一七一〇号によつて、その設置場所は東京府荏原郡羽田町大字鈴木新田江戸見崎北の方に変更になり、同日、同省告示第一七一一号によつて、同年八月二五日から同所に移転されるにいたつたものであり、それまでは、本件用地は東京飛行場には関係のない土地だつたのである。
ところで、国有財産台帳は、唯一の国有地の地籍公簿であるから、各事項の記入は法に従い直ちに事実に即してなさるべきものであり、東京飛行場についても、昭和四年四月、立川町に設置のときから記載さるべきであり、昭和六年八月、羽田町に移転したことも沿革欄に記載さるべきであり、羽田町所在の東京飛行場としては昭和六年八月から記載さるべきはずのものである。従つて、国有財産台帳に羽田町所在の東京飛行場として、昭和五年一月一八日から記載されていることは理解できない。
(二) 沿革欄の記載について
沿革欄についてみると、その記載事実は時の経過に従つて記載されていない。即ち、昭和六年の事項の次に昭和一三年の事項が記載され、この昭和一三年の記載を朱抹した次に昭和五年の事項が記載されているところからすると、記載の事項はその都度、記載されたものでないことがわかる。
(三) 所在地の記載について
右台帳の東京飛行場の所在地欄の記載は、「東京市蒲田区江戸見町一五九二番ノ一」とあるが、荏原郡が蒲田区になつたのは昭和七年五月東京市告示によつてであるから、昭和五年当時、まだ蒲田区なるものは存在していない。また、前記の逓信省告示にある東京飛行場移転場所「江戸見崎北ノ方」は昭和七年九月東京市告示により「羽田江戸見町」に変更されたのであるが、所在地欄記載の「江戸見町」なる行政地名は未だかつて存在しない行政地名である。
(四) 台帳記載の筆跡について
次に筆跡をみると、昭和五年から昭和一三年までの間の事項記載の筆蹟は同一人によつて同時になされている。右期間中の記載事項の訂正個所に「渡部」なる訂正印があり、国は、右「渡部」は昭和一五年から同一八年まで在職した渡部保三郎であると明らかにした。しかし、昭和二二年三月三一日の記載事項の筆蹟(甲第二五号証の三の二)とも同じと考えられるので、台帳作成者そのものについて疑問がある。渡部保三郎証人の証言の信用性にも疑いがある。
(五) 地番の記載について
台帳各葉とも、「所在地欄」には、所在地の地名地番について「一五九二番の一」と一様に記載されているが、国有地の唯一の地籍簿として、その記載は各筆ごとに明確にされていなければならないはずである。例えば、別表一五九二番権利移転経過図によれば、国は昭和一三年二月京浜電鉄株式会社から一五九二番の二を購入したことになつているが、台帳上は、これも一五九二番の一と記載されている。そのほか、羽田江戸見町以外の土地所在のものも全て一五九二番の一所在と記入されている。これでは、地籍簿としての役割を果たすことはできない。
(六) 数量欄の記載について
国有地を登載すべき簿書は本来、国有財産と土地登記簿であるが、本件羽田飛行場用地については、右のほか土地台帳まで存在することについては後に述べるが、同一土地を登載するかぎり、右の簿書の数量は一致すべきはずのものである。
しかるに、国有財産台帳上の地積記載は昭和五年購入分と昭和一三年購入分を合計すると二一万三、四三八坪八合八勺となり、これを武田忠臣がした登記一五九二番の地積及び国が有する土地台帳、土地登記簿の各地積と比較するとその間に著しい相違が発見され、いずれを真実のものとすべきものか、これを不明であるというほかはない。このような国有財産台帳によつては国の主張を裏付けるものになしえない。
(七) 用語について
国有財産台帳の記載形式は一義的、統一的に使用されるために厳格に定められている。特に、財産の「増」の場合の記載様式は昭和二三年法律第七三号国有財産法、同施行令、同施行細則は「購入」とし、旧国有財産法、同施行令、同施行細則は「買入」としている。もし、国の主張のとおり、昭和五年、旧法下において作成されたものであるならば「買入」という用語を使用すべきはずであるのに、「購入」という用語で記載してある。してみると、作成時期について疑いがあるといわねばならない。
(八) 編綴方式について
国有財産施行細則第一号様式調整要領によると国有財産台帳は加除自在のバインダー式帳簿とする旨規定されているが、それまでは加除のできない「ひもとじ式」であつた。ところで本件の国有財産台帳の編綴方式は、とじ穴があり、バインダー式の金具は使用していないが、加除自在の「ひもとじ式」であるところからすると、「ひもとじ式」から「バインダー式」に移行する間の「過渡期の作品」であると解せられ、到底、戦前の作成とは思われない。
(九) 以上のとおり、国の国有財産台帳には数多くの疑点がある。このように、作成時期が不明で、かつ、誰が、いつ、どこで、何について作成したか全く不明な文書は、民事訴訟法第三二三条の要件を具備せず、その成立の真正は推定されない。たとえ、形式的証拠力が認められるにせよ、前述のとおり、数々の実質的な疑念を考慮すると、到底、心証形成の用に供することは不能であるといわねばならない。
四、甲第二一号証の四の一四土地登記簿謄本写の証拠力と証明力について
国は、右は東京地方裁判所昭和二年(ワ)第五三号事件において、同事件の被告代理人安藤宇一郎弁護士から乙号証として提出された書証土地登記簿謄本の副本(書証写)で、右事件の原告代理人樋口恒蔵弁護士の既済記録中に保存されていたものと説明している。
しかし、右の副本によると、これは、表題部の地番記載が示すように一五九二番の土地に関するもので、国が本件で主張する一五九二番の一に関するものではないが、甲区欄の記載からすると、国はその主張の日に一五九二番を購入したことになり、国の主張を裏付ける資料にはならない。この証拠によつては、一五九二番、七〇町六反四畝二二歩の土地を、武田忠臣から幾人かの権利者を経て、昭和四年一一月二八日に逓信省が買い受け、昭和五年一月一七日、その旨の登記をしたこととなるのである。
しかしながら、右のことよりも、この書証写によれば、その原本に「抹消ニ係ラサル登記ノミヲ謄写ス」と裁判所書記の謄本認証文言が存したことになるが、このことは、書証原本たるものは登記簿現在謄本として現に効力を有する登記のみを謄写して作られたことを示すものである。しかるに、書証原本であつた土地登記簿謄本のうち表題部の一番、二番、甲区欄の一番は、国の主張からいつて既に抹消になつた部分であるはずであるから、これの記載があることはその認証文言からいつてありえないことであるのに、記載されたものの殆んどはこれら抹消部分であるということは、この書証写の原本たる土地登記簿謄本の存在自体が疑われるのである。
もし、この書証写の原本が、その認証付記のとおり土地登記簿の現在謄本であるとすれば、その表題部には一五九二番ノ一、地積五三町三反三畝一〇歩と記載され、甲区欄には逓信省の取得登記の記載のみがなければ付記の趣旨に反するし、国の主張とも一致しないことになる。
従つて、このような書証写によつて、その記載にそつた内容の原本の存在を推認することは不可能で、これによつて、国の買収並びに登記の事実を認める資料にはなしえない。
五、土地台帳謄本について
(一) 本件土地台帳の再製経緯について
国は本件土地台帳は、戦前存していた土地台帳が戦災で焼失したので、最終の権利関係のみを記載してあつた疎開用土地台帳によつて再製したものであるというけれども、その形式や記載内容からみて、到底、法定の土地台帳にかわりうる疎開用台帳に基づいて作成されたものとは思えず、もし疎開用台帳というものがあつたとしても、それは法律上の土地台帳ではなく一種の控え又はメモにすぎないのであるから、これを疎開用台帳と称するのは誇大にすぎるし、これによつて再製したものも土地台帳と称しうるものではない。
(二) 本件土地台帳の疑問点
元来、土地台帳というものは、民有有租地の課税台帳であり地籍台帳でもある。従つて国有地について土地台帳が作成される筈のものではなかつた。もし、民有地を国が取得した場合は、民有地について存した土地台帳は閉鎖される取り扱いであつた(昭和二九年六月三〇日民事甲第一三二一号各法務局長地方法務局長宛法務省民事局長通達土地台帳事務取扱要領)。
しかるに、本件では国有地について土地台帳が存することとなり、しかもそれによると、おびただしい分筆がなされ、著しい地積の増加がみられ、それも、いつ、どうようにして、このようになつたかは一切不明である。ところで、これらの分筆は、国がしたものと推測されるが、もしそうだとすると、本来国有地の分筆は国有財産台帳上においてなされるべきであるのに国はこれをなさず、本来、閉鎖されてあるべきはずの土地台帳上においてなしたということになり、かつ、国はなんら分筆の必要(例えば一部譲渡、地目変更等)がないのにこれをしたということになる。また、地積の増加については、結局、一五九二番の一及び二の元地とその地積及び考えうる分合筆の経緯からして、これらの各分筆土地のいずれからも増積の原因たる土地を生み出すことはできない。
以上のとおり、多くの疑いのある本件土地台帳は、国の主張を裏付ける証拠になるものではない。
第六、国は一六〇八番、一六〇九番の登記が実体的権利を欠くと主張できない。
一、国も認めるように、国(内務省)は明治三九年五月二二日、明治五年の開墾許可地につき内務省登記をしたうえ、折橋芳郎、田中三四郎にその所有権を付与し、同日、同人等に所有権移転登記をしたが、これらの行為は一切、国がした適法有効な行政処分であり、右処分には不可変更力があるものであるから、後の国の当局者が時々の国の都合により勝手にこれに対する評価を異別にすることは許されないところである。
二、また、国が、内務省登記のうち一六〇八番、一六〇九番を実体を伴わない登記だと主張することは、とりも直さず、同一経緯で同時になされた一六〇五番ないし一六〇七番の登記も実体を伴わないものと結論すべきはずのものである。
ところで、内務省登記の現状を見るに、一六〇八番、一六〇九番については別表第二の権利移転経過をたどり、現在、別紙第二物件目録記載のとおりに分筆されているが、その余の一六〇五番ないし一六〇七番については昭和の初め、東亜港湾工業株式会社においてこれを買入れ所有していたところ、昭和二八年六月三〇日にいたり同会社は右のうち一六〇六番、一六〇七番をそれぞれ一、二に分筆登記したうえ同日、一六〇六番、一六〇七番の各二の二筆を国(航空局)に譲渡し、ついで昭和三四年七月二五日に残りの一六〇五番及び一六〇六番、一六〇七番の各一の三筆を同様、国(航空局)に譲渡し、国は、これら一六〇五番ないし一六〇七番の所有者として今日にいたつている。
してみると、国は内務省登記を実体上の権利を伴う正当なものとして承認したというほかはないから、国が本件で、一六〇八番、一六〇九番にかぎり内務省登記の無効を主張することは矛盾であり、国の態度として許されないことである。
(野本治平及び江田重蔵の反訴請求の原因並びに国の主張に対する反論)
第一、別紙第二物件目録記載の土地(以下野本土地という)のうち、第一ないし第五及び第八の土地が野本治平の、同目録第六及び第七の土地が江田重蔵の所有であることについて
一、明治五年、折橋政嘉及び石黒堅三郎の取得した権利が所有権ではなく海面(公有水面)埋立権であつたこと、武田忠臣は何らの権利も取得していないこと及び武田登記が無効の保存登記であることは既に本訴関係において述べたとおりである。
二、ところで、折橋政嘉の海面埋立権に対する持分は、明治二一年九月二四日折橋桂造が相続し、更に桂造の持分は明治三六年六月二五日桂造の母いろが相続し、更にいろは同年八月三日隠居したのでその養子折橋芳郎が同日相続し、一方、石黒堅三郎の権利承継人田中三四郎の権利はこの間何人にも移転することなく、明治三九年にいたつた。
三、その間、共同埋立権者となつた折橋桂造及び田中三四郎は明治三四年九月二八日、明治五年の埋立許可地の引き渡しと登記という右埋立地に対する所有権設定の行政処分(官許)を東京府知事に求めて出願し、折橋桂造の権利をいろを経て承継した折橋芳郎及び田中三四郎もこれを督促し、東京府もまた慎重審議の結果、明治三九年四月四日、右両名に土地引き渡しを指令し、その頃、引き渡しのため隣接民有地との間に境界標杭を建設する等の測量をした上で、±地を確定し、同年五月三日には引き渡地測定通知と下渡地実測積算図を指令、両人も同月一四日、御受書を東京府知事に提出した。
四、ここにおいて、本件埋立許可地は具体的に特定し、このときまでに全般的に陸地となつたことが認められ、所有権の客体としての適格性を有するにいたり、まず、国有となり、その上、引き渡し、即ち払下げという行政処分により右所有権は折橋芳郎、田中三四郎に帰属するにいたつたのである。
五、そして、東京府は、前記所有権の付与の処分に引続き、明治三九年五月二二日、内務省名義に保存登記をし、同日、折橋芳郎及び田中三四郎に移転登記手続をし、その頃土地台帳にも登録され、ここに埋立許可地に対する土地所有権設定付与及びこれに伴う公簿記載はすべて完結するにいたり、その後、内務省登記のうち一六〇八番及び一六〇九番に該当する土地所有権は別紙第二の権利移転経過図のとおり転々譲渡され、一六〇八番については昭和一七年四月一八日、一六〇九番については昭和一七年二月四日、いずれも野本治平の所有するところとなり、現在は右二筆は別紙第二物件目録記載のとおり分筆され、同目録中、第一ないし第五及び第八の土地は野本治平が、同目録第六及び第七の土地は江田重蔵がそれぞれ所有するところとなつている。
第二、野本土地上に一五九二番の一の登記が存することについて
しかるに、内務省登記のうち一六〇八番及び一六〇九番(合計六八町四反三畝一歩)と武田登記のうち番外一三番即ち後の一五九二番(七〇町六反四畝二二歩)とは表示面積に多少の相違はあるけれども同一の土地を表示するものであることは既に述べたところで、その後、一五九二番の分筆経過並びに存続自体不明であるが、現在国は、野本土地上の一部に一五九二番の一(地積五三町三反三畝一〇歩)の保存登記を有する。すなわち一六〇八番、一六〇九番の各一、四及び五(地積合計五三町三反三畝一〇歩)の土地(付属図面のうち<A><B><C><D><E><F><G><H><I><J><K><A>の各点を順次連結する線で囲まれた実測一五万九九九九坪九合九勺三才の土地)上に存する登記がこれである。
第三、所有権確認と登記抹消手続請求
然しながら、野本土地に対し、国が所有権を有しないことは既に述べたところから明らかであるから、国の有する一五九二番の一の登記は何ら実体的権利を伴わない登記である。しかるに国は、野本土地の野本治平及び江田重蔵の本件所有権を争うので、国に対し、右所有権の確認を求めるとともに国が本訴で確認を求める一六万坪を表示する一五九二番の一の登記の抹消登記手続を求めるものである。
第四、国主張の確定判決について
一、確定判決の存在について
国の主張するような確定判決の存在することは認める。
二、既判力について
野本治平、江田重蔵が右確定判決の敗訴原告の特定承継人であることは認めるが、右確定判決の既判力は及ばない。即ち、旧民訴法下にあつては、既判力及び執行力に関しては、法文第二四四条に「判決は其主文に包含するものに限り確定力を有する」旨及び第五一九条(現行法と同じ)が存したのみであつたから、既判力は特別の規定のある場合を除いては、特定承継人に及ばないとするのが、学説の一致した見解であつたし大審院判例もこの点につき一致していた。従つて、右判決の既判力は当時、敗訴原告であつた鈴木等の特定承継人にはこれを及ぼしえないことは明白で、このような、当時の特定承継人は前者に対する既判力を被らないという法律上の地位や利益は、その後の立法によつては奪いえないものと解すべきである。大正一五年四月二四日法律第六二号民事訴訟法改正法律施行法第二条は、「新法ハ新法施行前ニ生ジタル事項ニモ之ヲ適用ス但シ旧法ニ依リテ生ジタル効力ヲ妨ゲズ」と規定している。ところで、前記敗訴原告鈴木等は昭和四年新民訴法施行前、すでにその権利を野本治平等の前者に対して譲渡しているから、当然のこととして、野本治平等の前者は、その前者に対する判決の既判力を被むらないものとして譲渡を受けている。そして、そのような法律上の地位ないし利益は旧法の規定により確定していることであるから、このことはまさに右にいう「旧法ニ依リテ生ジタル効力」である。従つて国の既判力に関する主張は、既得権ないし法律不遡及の原則を無視するものである。
(証拠関係)<省略>
理由
(所有権確認と登記抹消手続を求める国の本訴請求及び野本治平、江田重蔵の反訴請求に対する判断)
第一、折橋政嘉及び石黒堅三郎の両名が取得した権利
一、当事者間に争いのない事実
明治五年八月二八日、折橋政嘉及び石黒堅三郎の両名が国の機関である東京府知事から、羽田村ほか二カ村地先海岸寄洲並びに海面約一五〇町歩を地代金二二五円鍬下年季一五年として払下げを受けたことは当事者間に争いがない。
二、両名に対する払下げまでの経過
成立に争いのない乙第一五号証の一ないし一六、乙第一六号証、乙第一七号証の一、二、甲第三号証の九、一〇及び甲第五号証の一の各文書の体裁と記載の意味内容とを、綜合考察すると、次のような事実が認められる。折橋政嘉は民部省(明治二年七月太政官第六二二号で設置、明治四年七月太政官第三七五号で廃止)に奉職中、明治三年三月東京府に建言書(乙第一五号証の二、三)を提出し開墾による興業殖産、政府の潤益、窮民撫育のため開墾可能とする地所及び開墾達成後の取益見込等を掲示してその必要を建言し、次で明治三年一一月窺書(乙第一五号証の四)及び同年一二月御内窺書(乙第一五号証の九)をもつて先の建言の採択を強調するとともにさらに具体的な場所面積(約千町歩)、収支の見込等を追加し、官費による施行が困難ならば金主を取り極めて達し申し上げる旨建言した。ところが、折橋の建言した地所は品川県(明治二年設置、明治四年廃止)の管轄内であつたためか、東京府は何の沙汰もしなかつたらしく、そこで同人及び石黒堅三郎の両名は改めて明治四年九月願書(乙第一五号証の五、六)同年一一月開墾地仕立目論見(乙第一五号証の七)及び開墾方願書(乙第一五号証の八)を品川県に提出するにいたつたが、右の各文書による出願の趣旨は、先の建言とは全く異なり、右両名の自費で開墾することとし、荏原郡羽田村、鈴木新田、糀谷村等海岸地先寄洲凡そ一五〇町歩について、一部は田畠に、一部は海苔の生産場所に造成するものであり、その予定場所の絵図面及び地元村民との間に示談成立の旨をも申し添えたものであること、これに対し品川県は、取調べ中に廃県となり、この件を一件書類とともに東京府に移管した(甲第五号証の一)ので、東京府はなお取調の結果、地先村々との示談も行き届いていることを確め(その資料の一部乙第一六号証)無地代で両名の願出に応ずる所存であるとして開墾場所の絵図面を添え大蔵省に伺を立てたこと(乙第一五号証の一〇)、これについて大蔵省は、翌明治五年一月、無地代は相成り難いが、相当の地代金をもつて払下げを取り計う旨指示回答し(乙第一五号証の一一)、次で前記両名は同年三月、前記一五〇町歩について一五年の鍬下年季で田畠造成の見込を立て、地盤に応じ三段階に区分して地代金を算出し、計二二五円で払下を受ける旨東京府に申し出たが(乙第一五号証の一二、一四)当時払下事務の監督行政を行つていた大蔵省勧農寮(明治四年七月太政官第三七七号、同年八月太政官布告第四四二号)はこれに対し同年七月、右払下げを入札による旨通知した(乙第一五号証の一三)こと、そこで両名は同月従来のいきさつを陳情して先の指示どおり入札によらずに随意契約による払下げを願い出たところ(乙第一五号証の一四)、東京府知事はこの願出を容れ、同年八月二八日随意契約で両名の地代金見積どおり二二五円の地代金で前記争のない一五年の鍬下年季による払下げをし(乙第一五号証の一五)、同年九月二七日、両名からその地代金の一〇分の一の上納が行われたこと(甲第三号証の九、一〇、乙第一五号証の一六)が認められる。
三、本件払下げの根拠法制
(一) ところで、前記両名に対する本件払下げは如何なる法制に基いてなされたかを知るためには、その当時の法制の変遷及びそれら法制の推移によつて窺われるその時代の社会事情及び政府の方針なども併せ考慮することが必要である。なお、明治初年頃は未だ法体係が整つていなかつたので、布告、太政官布告、達、布達等種々の法令、処分、通知もとくにその間の効力上の優劣を考慮するまでもなく等しく法制の源となるものとして考察すべきものと考える。
まず、明治新政府はその発足後間もなく明治元年八月太政官布告第六一二号において「諸国税法之儀其土風ヲ篤ト不相弁新法相立候テハ却テ人情ニ戻リ候間先一両年ハ旧慣ニ仍リ可申……」と布告したところからすると税関係のみならず一般の土地制度についてもしばらく旧慣によつて事を処すこととなつていたと推察される。
しかし、やがて明治二年七月二七日太政官第六七四号民部省規則(明治四年太政官第三七五号により消滅)、同日太政官第六七五号府県奉職規則(明治四年太政官布告第六六一号により消滅)が発せられ、右民部省規則第九項には「田畑ヲ培養シ山野河海ノ利ヲ興シ種樹牧牛馬等総テ生産ヲ繁殖シ以テ富国ノ道ヲ開成スヘキ事」とあり、同じく府県奉職規則第四項には「古田畑ヲ不怠培養シ又ハ土地ヲ開墾シ山野河海ノ利ヲ興シ生産ヲ富殖シ庶民職業ヲ勉励繁盛ナサシムヘシ……附土地ヲ開墾シ水理ヲ変更スル等総テ地形ノ変スル事ハ絵図並入費積リ書ヲ以テ民部省へ伺出其決ヲ受クヘシ」とあり、維新早々のときにおいて、明治政府が殖産興業の一環として開墾奨励の政策を樹立するとともに、開墾等については中央政府に伺を立てさせて統一を計ろうとしていたことがうかがわれる。
次で、明治三年九月二七日太政官布告第六三〇号府藩県管内開墾地規則が発せられ、同開墾地規則には「府藩県管内開墾地之儀是迄御布令ニ遵ヒ都テ伺出指図相受候処左候テハ時日相後レ自然機会ヲ失ヒ開業難行届儀モ有之候間向後別紙之通規則被相定候条右ニ照準シ取計可致事」とあるところよりすると、前記政策のもとに、各府藩県において開墾は盛んに行なわれていたこと、従つて民部省に対する指図伺も激増し、その手続の簡易化と整備統一の必要が痛感されるにいたつていたことがうかがわれる。
そこで、この規則によつて、明治政府により全国的に統一規制された開墾許可方針を知ることができるが、そこにおいてまず開墾の対象となるべきものとして考えられていたものは「山林野沼及ヒ海岸附寄洲等之場所」及び「川中附寄洲等」が主なところである。ところで、この「附洲」「寄洲」ないし「附寄洲」の意味については特に定義したものはないが、農本的な当時において、人々の有した開墾能力、人々が開墾適地と解しえた客体の地味土質から考えると、「附寄洲」というのは、川や用水、悪水等の流れによつて自然に堆積し成長して行く土砂の部分を指称したものであり、それが川中に生じたものであれば特に「川中附寄洲」と称したこともあり、それが海に流入するところに生じたものであれば特に「海岸附寄洲」と称したこともあつたと解される。
次に右規則は、第一項において「……自費ヲ以テ開墾致度段願出候節ハ……反別五町歩ヲ限リ其管庁ニ於テ差許鍬下年季地代永等至当之所分可致事」といい、第七項において「伺之上免許之分」と定めていること、既に府県奉職規則が布告されていたこととも考え合せると、右開墾地規則は、当時、府藩県、就中、藩において慣行的に存在した開墾許可についての免許制を承認、この取扱いを前提とし、府藩県限りの免許と民部省伺いの上の免許と漸進的な統一規制を試みたが、五町歩以下の私費開墾を府藩県、就中、藩限りで許可する場合は、従前の不統一な許可条件をそのまま承認した趣旨と解される。
ところで、右開墾地規則は明治五年一月一三日大蔵省達第一号によつて取り消されたが、その前にすでに明治四年八月大蔵省達第三九号「荒蕪不毛地払下ニ付一般ニ入札セシム」(以下荒蕪不毛地払下げ規則という)が発せられており、右明治五年一月大蔵省達第一号に「荒蕪不毛ノ地開墾致シ度者ハ入札の上地所御払下可相成筈昨未九月中(八月中の誤り)相達候ニ付テハ一昨午年九月中布告相成居候開墾規則ノ儀ハ取消候儀ト可心得候事」とあるように、これを実質上失効させた法令が、まさに右の荒蕪不毛地払下げ規則であつた。このように開墾地規則を失効させて別に荒蕪不毛地払下げ規則を布達した理由は、明治四年七月一四日、太政官布告第三五三号によつて廃藩置県を断行し、藩体制を一掃した政府は、同時に従来、諸藩の処理したすべてを荷うこととなり、諸藩の財務一切を継承した大蔵省としては、即刻直面するにいたつた財政難局に対処するため、その財源の一として未開発資源ないし遊休資源としての荒蕪不毛地に着目し諸民の殖産及び土地支配意慾を一層利用してこれを誘発することにあつたことは後に述べるところで察せられる。
右大蔵省達第三九号(荒蕪不毛地払下げ規則)の全文は、次のようなものである。
「別紙ノ通今般御布告相成候条各府県管内於テ地所望ミノモノ有之節ハ広ク入札為致三番札迄別紙雛形ノ通リ官員一々奥印致シ村名並字等記載イタシ候絵図面相添当省へ伺出許可之上落札可申渡事但代金之儀ハ其都度当省へ上納可致事
各管内荒蕪不毛之地所自今相当ノ価ヲ以御払下ケ相成候間士民ヲ論セス望之者ハ別紙雛形ノ通入札致シ其地方ヨリ当省へ願出可申事」
(入札雛形)
何国何郡何村字何々
一 反別何程
此地代金何程 但壱反歩ニ付金何程
但当何年ヨリ来ル何年迄鍬下何カ年ノ中ニ開墾仕成就之上ハ種芸牧畜何々之見込ニ御座候尤鍬下年季中野銭等ハ従前ノ通り上納仕候事
右之通入札仕侯処相違無御座候落札相成候節ハ即日代金十分一残金之儀ハ開墾成就ノ上皆納可仕候万一相違ノ節ハ地所御取揚ケ被遊候テ聯申分無御座候以上
年号月日 何国何郡何村 何某印
前書之通り立会候所相違無之候以上
何府県官員 何某印
そして、前に述べた経過からすると右払下げ規則に「荒蕪不毛之地所」とあるのは、前記開墾地規則にいう開墾の対象としての山林野沼及び海岸又は川中附寄洲等の地所と異別に解すべき理由はなく、むしろ、これらを包含したより広い概念として把えなければならないが、それより重要なことは、開墾地規則が「自費ヲ以テ開墾致度段願出候」者に開墾を「差許」したのに対し、払下げ規則は「地所望ミノモノ」に「相当ノ価」で「払下ケ」ることとし、しかも、それは「入札」にふすることとしたという相異点から窺える両規則間の政策の転換についてであり、その結果、払下げ規則は従来の免許制を廃止し、荒蕪不毛の地所を以後、払下げ規則の法文の字句どおり、入札によつて得られた相当の代金をもつて権利を人民に譲渡することを布達したものであり、その入札払下げ方法を規定した趣旨の法令と解すべき点にある。
(二) そこで、右法制の変遷と折橋、石黒に対する本件払下げの前認定経過とを対照して、右払下げの根拠法制を検討する。
まず折橋が明治三年三月東京府に提出した前記認定の建言書の趣旨は、民部省に奉職して前記民部省規則に示された開墾奨励、興業殖産の政策を知つた折橋がこれに相応ずる大規模な開墾事業を興すことを進言したに止まり、未だみずからその事業に当ることを願い出たものとは解されない。
しかし、折橋が前記認定のとおり明治三年一一月窺書を、同年一二月御内窺書を東京府に提出するに至つて、先の建言の趣旨はいよいよ具体的となり、その建言する事業が官費で施行し難ければ金主を取り極めて申達する旨述べており、前記認定の明治五年七月東京府に対する陳情書(乙第一五号証の一四)中に「庚午(明治三年)三月中ニ御府江出願尚又手続取調同年冬巨細ノ書面差上候」とあることからすれば、折橋は右明治三年一一月及び一二月窺書等を提出するに当つては前記明治三年九月の開墾地規則を知つてそれに基く開墾事業の建言をしたものと思われ、次で折橋、石黒両名が明治四年九月及び同年一一月品川県に願書、開墾地仕立目論見書を提出し、面積を一五〇町歩とし絵図面を添えて場所を示し開墾を願い出でたについては、これについてもなお当時未だ明かに取り消されていなかつた右開墾地規則によつたものと思われる。
ところで、前記認定のとおり、大蔵省が明治五年一月有償払下げの指示を東京府に対してなし、これに応じて折橋、石黒両名が同年三月地代金を算定してこれを申し出でたが、前記のとおりその前年明治四年八月新に大蔵省達第三九号の荒蕪不毛地払下げ規則が布達されて、開墾地規則はすでに実質的に失効し、次で明治五年一月大蔵省達第一号で正式に右開墾地規則取消の旨が布達されていたのであるから、折橋、石黒の当初願書の趣旨にかかわらず、大蔵省としては明治五年一月の右有償払下げの指示を右荒蕪不毛地払下げ規則に則つてなしたものと思われる。もつとも、同規則によれば開墾払下げは入札によるべきであるのに右東京府に対する指示にはそのことを明示せずにたゞ相当の地代金をもつて払下げを取り計う旨を明らかにしたに過ぎないけれども、「払下」の用語は開墾地規則にはなく、荒蕪不毛地払下げ規則にはその用語があることと、次で前記のとおり大蔵省が明治五年七月前記両名に対し入札によつて払下げる旨を通知したことを併せ考えれば、同年一月の東京府に対する前記指示は入札を当然の前提として入札によつて形成される相当な地代金で払下げる旨を明にしたもので荒蕪不毛地払下げ規則に則つてこれをなしたものであることが明らかである。
この大蔵省の入札払下げの通知に対し前記両名は直ちに従来のいきさつを陳情して入札によらない随意契約を願い出で、東京府知事から結局入札によらずに明治五年八月二八日本件払下げがなされ、同年九月右両名が地代金の一〇分の一を上納したことは前記認定のとおりであるが、この一〇分の一の地代金の上納は開墾地規則にはなく荒蕪不毛地払下げ規則に明定するところで、当時すでに前記開墾地規則は失効し荒蕪不毛地払下げ規則によつて開墾地払下げが行われていたことからすれば、右両名も当然に同規則に準拠した払下げを受ける趣旨を了知し(あるいは相当の地代金で払下げる旨の通知に応じて地代金の算定をしてこれを申し出でたときにすでに右規則による意思であつたとも解される)、ただ入札方法のみを除外する特別措置を前記陳情書で願い出たものであり、本件払下げはまさに同規則によつてなされた特別の措置であつたものと解すべきである。
そうだとすると、本件払下げ権利の内容、性質は右の払下げ規則によつてこれを理解すべきものといわねばならない。
野本治平ほか二名代理人は、折橋、石黒両名の出願手続及び当局の払下げ手続はすべて旧幕時代以来の海面埋立に関する不文の慣行法制に則つたと主張するが、その失当な見解であることは以上によつて明らかである。
四、荒蕪不毛地払下げ規則により払下げを受けた権利
そこで、荒蕪不毛地払下げ規則によつて払下げを受けた者が払下げ地所に対して取得する権利の性質及び内容を検討する。
(一) 同規則に用いられている「地代金」及び「代金」の意義
当時においては一般に、今日ほどに法令用語が正確でなかつたといいうるとしても、当時、既に「免許」という用語は開墾地規則に見られるほか、明治四年一月民部省第二号達には「官許」という用語が使用され、また同年三月七日民部省第六号達には「御買上ノ積ヲ以一時ニ相当ノ価相渡候共」とあるのであるから、右開墾地規則を改廃すべく出現した荒蕪不毛地払下げ規則が、不用意に用語を使用したと考えられないばかりか、翌五年、本件払下げがなされるまでの間に大蔵省が布達したもののうち、
明治五年二月二〇日第二三号には「猟師役ノ名儀ハ相廃シ猟師免許税ト相唱候事」とあり、
同年三月一八日第四四号達には、「開墾地山林地代金ノ儀以来租税御勘定組相除其都度勧農寮へ可差出事」とあつて、税と代金とを明確に区別しているほか、更に、
同年六月一五日第七六号達(以下官林払下げ規則という)は、「是迄官林ト唱伐木差留有之候山林都テ御払下ニ可取計尤買下之者余人へ売渡候儀ハ勿論山林ノ侭所持致シ又ハ伐木候トモ可為勝手訳ニテ全ク公物ヲ私有物ニ相改候趣意ニ付於府県篤ト取調差支無之場所ハ別紙雛形之通……広ク入札ノ上三番札迄相添当省へ可伺出委細ノ儀ハ左ノ規則二照準可致事一、落札ノ者立木代ハ即金上納地代ハ五ケ年賦上納ノ積リ前広入札人へ相達置可申事一、<省略>一、山林税ノ儀追テ御改正相成候迄近方従来ノ山林へ比較致シ相当ノ税額当省へ可伺出事、一、是迄官林請山或ハ立銀山等ノ唱ヲ以年々下草永等上納致シ来候場所ハ其年ヨリ相廃シ落札本人ヨリ山林税為差出可申事一、<省略>一、是迄官林ト唱来候トモ其実立木等無之場所ハ先般相違候荒蕪不毛地御払下規則ニ照準可致事右之通候事」(入札雛形略)としており、
もはや払下げが、官から人民への何らかの権利の譲渡を意味したことは二義を許さないほどに明確である。右官林払下げ規則にいう「荒蕪不毛地御払下規則」が、今検討の払下げ規則を指すことは明らかで、両者は払下げ対象物こそ異なるが、その根底にあるものの考え方は共通で、たゞ官林払下げ規則は荒蕪不毛地払下げ規則より一年近くおくれて布達されその手続規則が詳細となつたことと、右の間に明治五年二月一五日太政官布告第五〇号「地所永代売買ヲ許ス」をはさんだためか、人民の間における売買を「売渡」なる用語をもつて表現した点に特色があるにすぎない。なお、右の官林払下げ規則は土地代金を「地代」と称しているが、他方、明治三年一一月九日太政官布告第八〇八号には「他村之地所ヲ借地イタシ下方相対ヲ以地代差出」とあり、明治五年八月二七日太政官布告第二四〇号には「地代店貸ノ儀……双方共相対ヲ以取極メ致貸借候儀可為勝手事」とあるところよりすると、当時、「地代」なる用語は法令上、土地代金の意にも土地借用の対価としての意にも混用されていたといえるが、そのいずれの意に用いられたかは法文上明瞭に判別しえたことが明らかであり、「代金」なる用語に土地借用の対価としての意を持たせた用語例は発見できない。
以上のとおり、本件払下げのあつた明治五年八月当時においては、法令上、代金は何らかの権利の譲渡の対価の意味に使用され、免許料ないし租税或いは土地借用の対価としての地代等の用語と区別されていたばかりか権利の譲渡を称するのにも、官から人民への移転を官からみて「払下」(なお明治五年代には「売下」といつた例もある)、人民からみて「買下」といい、官が人民から譲受することは「買上」といい、人民相互間の譲渡は「売渡」といつてそれぞれ区別したことも認められ、荒蕪不毛地払下げ規則が使用する「代金」及び「払下ケ」の意味も同様の趣旨で使用されたものと解すべきことに支障は存しない。
このように開墾地規則に見える「免許」の用語がなくなり、荒蕪不毛地払下げ規則では「払下」の用語が用いられ、開墾免許主義から開墾地払下げ主義に転換したように見えるのは、後に述べるように当時の土地に対する人民の支配権の性質が変りつつあつたことと、前述した廃藩置県による新政府の財政難打開のためにする応急的な払下げ代金の収納及びその後に期待される貢納を目的としたことによる時代的背景があつたものと思われる。当時このような払下げ代金の収納等臨時的財源に新政府がいかに期待を寄せていたかは前記開墾地規則では「村内ハ勿論近傍村々故障之有無相糺………有益無害」の場合に開墾を「差許」すとしていたのに、荒蕪不毛地払下げ規則及び前記官林払下げ規則ではこの条件を撤廃し、たとえ荒蕪不毛地または官林について近傍村民が入会その他の権利を有していてもこれを無視したことによつても知り得られるのである。
(二) 同規則によつて払い下げられた権利の性質
右規則による払下げ対象物は国がそれまで有していた払下げ地所に対する包括的、絶対的な支配権であり、右規則はこれを特定人民に対し、全く無留保で有償譲渡し、払下げにより国が有した排他的な支配権のすべては人民に移転したと解すべきであり、前証官林払下げ規則が詳細にその効果を説くところと同様に解すべきものである。即ち、官林払下げ規則も荒蕪不毛地払下げ規則もその布達の時期が近接しており、用語、払下げ方法もほとんど一致し、前者はとくに立木のない場所の払下げはたとえ官林といえども後者の規則に準拠すべきことも定めていることは前記のとおりであるが、官林払下げ規則では、払下げは「全ク公物ヲ私有物ニ相改候趣旨ニ付……」と示し、或は払下げを受けた者は「余人へ売渡候儀ハ勿論…可為勝手……」と示して官民の認識を啓蒙しており、さらに明治四年一二月二七日太政官布告第六八二号、明治五年二月一五日太政官布告第五〇号、同年二月二四日大蔵省達第二五号で地券の発行制度及び土地永代売買の自由制が行われることになり私人の土地に対する排他的支配権の発生をみるにいたつたこと、前記のとおり官林払下げ規則も荒蕪不毛地払下げ規則も、近傍村々の利害を顧慮せずに払下げをしたこと(その点に問題があり、明治六年七月二〇日太政官第二五七号で右両規則とも一部例外を存置しただけで差止められる契機となつたとは思われるが)等を併せ考えると、少くとも明治五年八月、右荒蕪不毛地払下げ規則によつてなされた本件払下げの対象物は払下げ場所に対する国の総括的、排他的な支配権であつたというべきである。
野本治平ほか二名代理人は、私所有権概念が存しなかつた当時においては所有権ないし所有権と同一実質を有する私権は存在しえないと主張する。
たしかに、明治初年の法令を見ても、人民と土地との関係について「誰々持之地」「持主」「所持地」等の用語例は多数存在するが、およそ「所有」なる用語は当裁判所の検索したところでは明治四年四月四日太政官布告第一七〇号「戸籍法ヲ定ム」即ちいわゆる壬申戸籍と称されるものの第四号戸籍書式の中に「所有ノ地」として使用されたあたりを初めとし、明治六年にいたり、ようやく散見されるようになり、明治七年一〇月三日太政官布告第一〇四号には「所有ノ権」なる用語例を見ることができるのであるが、例えば、明治元年一二月一八日太政官布告第一〇九六号に「拝領地並社寺等除外之外村々之地面ハ素ヨリ百姓持之地」とあるところからも明らかなように、「所持」ないし「所有ノ地」なる用語は、当時における人民の土地に対する在り方、人民と土地との相関関係を極めて即物的に把え表現したものであるとゝもに、当時の法制が、特定の人の特定の土地に対する具体的事実的な財産的な支配状態をそのまま特定の人の特定の土地に対する私的な利益であるべきことを承認した上、それを前提としてそこにある社会秩序を維持規制しようとしていたと解すべきことは、当時の法令を通覧するときは直ちに看取できるところであり、「所持」という言葉の中に、土地に対する或る種の支配権が前提されていたことは疑いない。
そこで、「所持」と称される支配権をどのように理解すべきかは困難な問題であるが、現行法にいう所有権、永小作権その他の物権との関連において理解しようとするのは一方法であり、この方法による場合に、関連対比されるべきものが法制史料に基づき確定されたところの往時における種々時々の「所持」権の実質と、自由に使用収益処分しうる排他的包括的支配権としての現行法上の所有権の実質をはじめその他の現行法上の物権の実質であるべきことは当然であろう。そしてその結果往時において種々の実質を備えて存在した「所持」権のうちのある種の支配権が、その実質において自由に使用収益処分しうべき全面的排他的支配権であると認められた以上は、その支配権を所有権と称することは表現の問題であり、所有権でなかつたということは単に往時における用語の不足を意味するだけにすぎず、用語の不足を理由に、その実質の存在を否定しさることはできない。
そして前記払下げ規則による本件払下げは、まさに国が払下げ地所に対し、それまで有した排他的、包括的支配権すなわち現在の意味における所有権と全く同一実質の権利を何らの留保もなく自由に譲渡可能なものとして人民に移転したものであると理解すべきことは前に述べ来たつたところであるから、当時における一般的な所持権の内容、近代的所有権概念の生成過程等を検討するまでもなく、前記主張は排斥すべきものである。
五、海面に対する排他的総括支配権
野本治平ほか二名代理人は、本件払下げ地所は海面であるから排他的総括支配権の対象とならないと主張する。
海陸の分界について大正一一年四月二〇日発土第一一号各省次官宛内務次官通牒(同日発土第三五号各地方長官宛土木局長通牒の「陸地ト公有水面トノ境界ハ潮汐干満ノ差アル水面ニ在リテハ春分秋分ニ於ケル満潮位……ヲ標準トシテ之ヲ定ムルモノトス」る考え方は、今日法律の承認するところといえる(海岸法等)。そして本件払下げ地所が右の標準に従う場合、むしろ海面と称すべき地所であつたことについては当事者の見解は一致している。
しかしながら、前掲の東京府の大蔵省に対する伺書は、折橋・石黒両名の出願を「海面寄洲凡反別百五十町歩開拓願」と表示し、両名の地代見積書にも海面部分の存在が明示してあることなど、本件払下げ地所に海面を含むことを表示して何のためらいもないこと、大蔵省もまたこれを何ら問題としていないことからしても、本件払下げ当時においては官民ともに、満潮時に海面下に没する区域も、更にこの区域に接続したところの、干潮時にも地表を現わさない区域についても、開墾の目的で私人に譲渡できるものと考えられていたことが認められる。その考えの根底には、海とは何か、陸とは何かというものの考え方は存在しないかのようである。明治政府の殖産興業政策と廃藩置県直後の財政窮迫時の切抜け政策からすれば、人力による開墾可能の地所はすべて荒蕪不毛地たる未開発資源であり、これを私費で開墾しようとして欲する者があれば政府はその者の自発的な経営による開発を期待するとともにそれに便乗し、その間の払下げ代金の一時的な収入と開発成功後の地租の収入を期待したのであり、このような政策のもとで官民の間で、直ちには利潤をあげえない地所も、それはいずれ開発され利潤を産みだす母胎として、その限りでは既に価値あるものとして把えられ認識されたとしても不思議ではない。
そしてこのような考え方を背景に、これを反映させているのが荒蕪不毛地払下げ規則はじめ当時の法令であるが、既に掲示したもののほか、例えば
明治八年二月七日内務省達乙第一三号が「昨七年第百二十号地所名称区別官有地第三種之内湖海沼池ノ類ヲ埋立耕地宅等ニ自費開墾致度趣ヲ以払下出願ノ節故障ハ勿論他ニ望人無之候得ハ水面埋立之分海面ハ満潮ノトキ・水下トナルモノ無代価可下渡附寄洲或ハ自然堆積乾燥シテ平常水浸ササルモノハ都テ一般ノ成規ニ照シ相当代価ヲ以払下可申最望人両人以上有之候得ハ水面ト雖入札払ノ積ヲ以取調可伺出此旨為心得相達候事」
とするのは、満潮のとき海水の下に入る区域をもつて「海面」と称するにいたつたこと及びこれを原則として無代価払下げにしている点で荒蕪不毛地払下げ規則と異なつてはいるけれども両者はなお、同様の客体の価値把握をしているものであり、明治一〇年一月二〇日太政官布告第八号民有荒地処分規則が第四条で、「川成海成湖水成等ノ荒地ニシテ地主持続クヘキ望アルモノハ拾年迄ノ年期ヲ定メ無代価ノ券状ヲ付与スヘシ但右ノ場合ニ於テ所有主其土地起返シノタメ杭杙打連子若シクハ篝柵取設ケサルモノハ他人ノ漁魚採藻等ヲ拒ムノ権ナキモノトス」とし、第五条で「年期明ニ至リ原形ニ復セサルモノハ又拾年以内ノ年期ヲ継キ猶依然タルモノハ付与スル処ノ券状ヲ還納セシメ荒地ノ名称ヲ除去シ全ク川海湖地即チ・官有ニ帰スルモノトス……」とするのもまた、前に述べたところとその思想は共通で、その考え方が客体の終局的な価値喪失という逆の方向で顕現された場合にほかならない。
そうだとすると、当時の法令は、海水の常時侵入する地所についてこれが官有たる公物であることを前提とした上で、少くともこれが当時の人力で開墾し殖産興業に役立つかぎり、公物の扱を廃して特定の私人にこれを譲渡できるとしていたというべきである。当時の法令がこのように海水の常時侵入する地所を一般の荒蕪不毛地と同様に払下により私人の取得しうる権利の対象としていた以上、その払下によつて私人の取得した権利は、荒蕪不毛地に対する場合と同様の排他的総括支配権というべきであり、野本治平ほか二名の前記主張は理由がないといわねばならぬ。
そして前出乙第一五号証の一ないし一六、同第一六号証の本件払下げに関連する諸文書中、「地先並因洲」「地先玉川尻寄洲」「海岸地先寄洲」「海面寄洲」「地先海岸寄洲」「地先寄洲」「地先海岸」「草生寄洲」「蕪地草生地」等々、本件払下げ地所を称するための表現は一定しないが、その意味する地所は乙第一六号証に最も詳細に述べられているとおり、要するに多摩川口、多摩川の分流である海老取川口、糀谷村羽田村等の悪水吐口一帯の、満潮の時は海となり川ともなる洲高の部分のほか、これに続く海中、水中部分であることが認められ、「海岸附寄洲」と称するもののうちには、高洲となつて乾燥し、既に潮の干満に影響されなくなつた地所は勿論、満潮のとき海水又は流水下に入る地所、それにこれに接続するところの遠浅の常時海水下にある地所も一体として理解されていたものと解され、当時の人力によつて開墾可能で、その費用を償つて余りある開墾適地であつたことが認められる。
六、本件払下げ地所の特定
野本治平ほか二名代理人は、本件払下げ地所は特定していなかつたと主張する。
前認定においても一部触れたように前出乙第一五号証の五、七、八及び一〇ないし一五によれば、折橋、石黒の両名は出願に際し絵図面を添えた願書を出し、東京府もこの絵図面を添えて大蔵省に伺書を出し決済をえていること、その場所を表示するに当つては羽田村、鈴木新田及び糀谷村地先(明治四年九月の願書では大森村地先をも加えていたが、その後はこれを用いていない)とし、その面積も凡そ反別一五〇町歩程と一定していること、その開墾の具体的方法も申告し、代金見積りも地盤に応じ一応の区分けをした上でそれぞれ値付けをしていることが認められる。
ところで、当時はまだ一般には地番がなく、文字による土地の特定法は未熟であつて、特定の土地を表示するにも字名と土地の種類と反別のみで、これに絵図面を添える程度の方法であつたことは開墾地規則及び荒蕪不毛地払下げ規則の法文自体からも明らかである。そうだとすると、折橋、石黒両名の地所特定法も、当時において期待しうる特定法を尽したものであるということをまず知らねばならぬ。それに表示方法が未熟であることと、対象が不特定であることとは区別しなければならない。今日に較べ、社会の取引が静的状態にあつた当時において、具体的事実的な支配を介して人々に認識されて来た物に対する支配関係やその変動は、少くとも利害関係者間においてはかえつて今日より明確に把握されていたと考えられるのである。このように考えてくると、当時において前に認定したような諸事実が存在するというだけで、少くとも当時においては充分に特定していたと解される。しかも成立に争いのない乙第二三号証の四及び甲第三号証の二並びに当裁判所が真正に成立したと認める甲第一八号証の七の二によれば、右両名は払下げを受けた当時、東京府係員から現場で区画を定めて引渡しを受け、直ちに数千本の杭を樹てて塵芥等が波に漂つて自然に相集るようにしたことが認められ、このように開墾の具体的な着手ができたということも、払下げ地所が当時、特定していたことを示すものということができる。
たしかに、成立に争いのない甲第一六号証の一、二及び乙第九号証の二によれば、明治五年本件払下げ当時東京府が受理していた右両名と地元村との間の約定書には「鈴木新田地先糀谷大森間両村境卯一度ヨリ海面延長千五百間幅四百五十間ノ内ニ於テ寄洲地盤ニ応シ百五十町歩ヲ見立開墾スヘシ」との記載があつたことが認められ、いかにも総地積二二五町歩のうちから不特定の一五〇町歩を開墾する趣旨にとれそうである。このような地元村との約定書が真実東京府に提出されていたであろうことは、乙第一五号証の八、一〇及び一四の記載からも窺われ開墾地規則の趣旨、乙第一五号証の一一から窺われる荒蕪不毛地払下げ規則の運用上からも考えられるところであるが、このような書面の提出は必ずしも出願の要件をなしたわけでなく、(開墾地規則では必要であつた)要は地元村と開墾出願人との間で開墾場所について故障なきよう官側の配慮に資する意味しかなかつたということに注意しなければならない。即ち、示談内容に立ち入つた記載、報告は必要でなかつたのである。このことは右約定書の記載文言と前出の乙第一六号証の記載文言を対照すると明らかである。即ち乙第一六号証は、これは両名と地元村々との間に交換した示談書であるが、これによると前記二二五町歩(このような受け取り方に問題があることは後に説明する)のうち、玉川吐尻は水行、舟行のため川幅を一五〇間から二〇〇間に切り広げること、海老取川尻、糀谷村羽田村両村の悪水吐尻及び大森村境の悪水堀などは舟の出入りに差支えないように手当てすること、開墾成就分の一〇分の二は地元に趣意として渡すこと、鈴木新田丑寅の角の波欠地三町歩は鬮で地元に渡すことになつているほか、種々のことこまかな申し合せがなされているのであつて、その対象の把握が極めて正確である(その正確であつたことは成立に争いのない甲第一五号証の三からも窺える。)とともに、後日絵図面に作成することが約されているのであるから、前記の約定書の僅かの記載をとらえて一五〇町歩が不特定であつたということはできない。それに当時においては地積の丈量技術は未発達で、陸地においてすら、十字法と称する測量術(不整形の地形も直角で矩形のものとして、縦横の長さを乗じて面積を算出する方法)によつたのが殆んどだつたのであるから、本件払下げ地所のようなものについて、海岸や川口、用水吐口等の入りくんだ地形、水行、舟行のため開墾から除外し確保すべき水脈等を正確に測量し、「海面延長千五百間幅四百五十間」即ち二二五町歩のうちから正確な反別を算出しえなかつたとしても当然のことであるし、そもそも「千五百間」といい「四百五十間」という検尺分量自体が、海面について特段の測量技術を持たなかつた当時として、今日的正確さを有したといえるか疑問であり、このような復雑な開墾地形や示談内容を管轄官庁に届けるにあたり、前記約定書の文言のとおり簡潔に表現し、それはそれで何らの物議をかもさなかつたということに、むしろ関係者たちの当時の自らの有する測量技術に対する不信と、関係地所に対する握持に近い支配に対する最終的な信頼の程を知ることができるのである。
してみると本件払下げ地所が不特定であるとの前記主張は採用できない。
七、結語
以上のとおり、明治五年、折橋、石黒の両名が本件払下げ地先海岸洲及び海面約一五〇町歩に対し取得した権利は排他的な総括支配権であつたと解すべきであり、右の結論に到達するまでの間に種々認定した諸事実に抵触する証拠は、その多くは本件払下げ時より時日を経過した後に作成された文書で、払下げ時の法制に思いをいたさなかつたうらみあり、或いは払下げ時の諸資料を探索しえなかつた欠点があり、いずれもこれを採用しがたいし、ほかに右の認定を左右する証拠はない。
野本治平ほか二名代理人は、その論拠を不文の慣行法制なるものに置いて折橋、石黒両名の取得した権利は海面(公有水面)埋立権であつたと主張するけれども、その主張は、本件払下げ当時の法制に基かない失当なものであつて、右主張をするにあたつて例示する乙第一八ないし第二〇号証及び第二一号証の一ないし三(いずれも成立に争いがない)のごときは既に明治八年二月七日内務省達乙第一三号または明治一三年三月四日各府県宛地理局通知水面埋立規則を予想しまたはそれらに拠つて作成された文書であることがうかがわれるから、これを参考に供することはできない。
第二、その後の武田忠臣にいたる権利移輯経過
一、折橋政嘉の持分権利が明治二一年九月二四日、相続により折橋桂造に移転したこと及び石黒堅三郎の持分権利を田中三四郎が承継したことについては当事者間に争いがない。
二、よつてその後の権利移転経過を検討するに、成立に争いのない甲第一一号証の一九及び乙第五四号証の二(この両者は同一機会に作成された権利譲渡証書二通を各別に写したものであると推測される。)によれば、明治二二年一一月一二日、右桂造は、宮本甚蔵に対しその権利を代金一〇〇〇円で譲渡したことが認められる。
野本治平ほか二名代理人は、右は仮装譲渡であり、後日、それを確認する意味で合意解除されていると主張し、成立に争いのない乙第五四号証の三(明治二二年一二月五日付委任状)、四(明治二二年一一月一二日付為取替約定証書)において右文書の作成名義人である桂造の後見人松井太三郎の氏名と押印、宮本甚蔵の押印がいずれも抹消されていること及びこれらの書面が前記乙第五四号証の二とともに桂造の手中に存している事実をもつてその裏付けとする。しかし、乙第五四号証の二ないし三を通覧すると、明治二二年一一月一二日、桂造の後見人松井太三郎は桂造に代り桂造の母牧村いろ及び親戚牧村静一の連署をもつて桂造の権利を代金一〇〇〇円で宮本甚蔵に売り渡したが、同日、その代金の支払いその他の特約条項については別途に為取替約定証書を宮本甚蔵との間で交換し、その後、同年一二月五日には、本件払い下げ地所について東京府と交渉するに当り、甚蔵名義では円滑を欠くおそれがあるためを考え、そのような際には甚蔵に桂造名義の使用を許すことを趣旨として委任状を甚蔵宛に作成したことが認められるのであるから、右の趣旨の為取替約定証書や委任状がたとえ失効のものとされたからといつて譲渡契約による譲渡までが取消又は解除されたと考えることはできない。また権利譲渡証書のごときは数通作成し、当事者各自が各一通を所持することは通常の慣行であり、権利譲渡人である桂造の手中にその一通が存したことから特段の事情を推測することはできない。のみならず折橋政嘉及び田中三四郎の両名が東京府知事を被告として不当指令無効及び土地権利確認請求の訴を提起し、明治二一年九月一四日、東京控訴院において勝訴し、右判決は確定したことは当事者間に争いないところであり、右争いのない事実に成立に争いのない甲第八号証、甲第一〇号証の一、甲第一一号証の二、四ないし八及びこれらによつて真正に成立したと認められる甲第一八号証の七の九、二三及び二五、成立に争いのない甲第一一号証の一七、一八及び二〇及びこれらによつて真正に成立したと認められる甲第一八号証の七の二六ないし二八並びに成立に争いのない甲第一一号証の二五、二六を綜合すれば、東京控訴院は右判決執行の件について東京府知事からの上申に基づいてその訴訟関係人を呼び出し一の和解を試みたが、その際、明治二三年一〇月七日、折橋介三は折橋桂造の後見人たる資格を兼ね同院に対し、右桂造の権利は同人から宮本甚蔵に、甚造から介三に順次譲渡されたものであるから、右判決執行の件については桂造において一切関係せず、全て介三においてこれに関与する旨の届出をし、かつ、相手方である東京府知事に対しても同様の通告をしていること、しかるに同院が右の届出を排斥した形跡も、府知事がこれに疑いをさしはさんだ形跡もないし、右介三が敢て虚偽の届出をしたものと認めるに足る証拠もなく、しかも前記桂造の元後見人であつた松井太三郎もこの権利移転関係を承認し、共有者の一人である田中三四郎においても介三を共有者の一人と認め同人とともに行動していたことが認められ、右はいずれも前記乙第五四号証の二ないし四の作成された日より以後の事柄に属するのであり、この事実によつても、前記主張は採用できない。
そして、介三の右の届出にもあつたところであるが、前掲甲第一一号証の一八、二〇及び甲第一八号証の七の二八によれば、明治二三年三月三日、甚蔵は介三に対し、その権利を代金一五〇〇円にて譲渡したことが認められ、更に、成立に争いのない甲第一一号証の三一、三二及び甲第一五号証の五によれば、明治二五年一一月二五日、介三が片野重久に対し、その権利を代金七五〇〇円にて譲渡した事実、成立に争いのない甲第一一号証の三四及び甲第一五号証の六によれば、同年一二月一七日、田中三四郎も片野重久に対し、その権利を代金六〇〇〇円をもつて譲渡した事実が認められ、明治五年の払い下げによつて付与された権利はここに、片野重久に単独帰属することとなつたが、成立に争いのない甲第一二号証の三及び甲第一五号証の七によれば、明治二五年一二月一八日、同人は武田忠臣に対し、その権利全部を代金二万円にて譲渡したことが認められる。
成立に争いのない乙第五四号証の一及び乙第五五号証をはじめ右認定事実に反する証拠は、右認定に供した証拠に対比して信用しがたく、他に右認定を左右するに足る証拠はない。
してみると、野本治平ほか二名代理人の主張する右認定の権利移転経過と相容れざる移転経過は理由がなく、武田忠臣が無権利者であるとの主張も失当である。
なお、同代理人の、払下げ権利が海面(公有水面)埋立権であることを前提とし、その権利の譲渡に官許を要するとの立論が本件に当てはまらないことはすでに説明の右払下げ権利の性質上いうまでもないことである。
第三、武田忠臣の本件土地所有権及び武田登記の効力
一、当事者間に争いのない事実
明治三三年中、武田忠臣は片野重久を被告とし東京地方裁判所に前記払下げ地所の所有権確認の訴を提起し、同年八月三一日、勝訴の判決を得たので右判決をもつて右の地所に対する自己の所有権を証明し、よつて同年一〇月一八日、右の地所を国の主張するとおり一三筆にわけて保存登記をしたこと、その一筆である番外一三番寄洲七〇町五反八畝一〇歩を明治三四年四月二六日には地番を同所一五九二番、地目を雑種地、地積を七〇町六反四畝二二歩と変更登記したこと、その後明治三九年五月二二日にいたり、東京府知事は本件払下げ地所のうち、少くとも一五九二番の地所を含む地域を明治五年払下げの場所であるとして実測の上、内務省名義で野本治平ほか二名主張のとおり五筆に保存登記をし、右の地所は、内務省登記がなされる直前には、もはや陸地と称しうる状況にあつたこと、本件係争地中、国の主張する一六万坪は右の武田登記においては番外一三番、後に一五九二番として表示され、内務省登記においては一六〇八番及び一六〇九番として表示された地所に含まれる区域であることはいずれも当事者間に争いがない。
二、本件土地所有権及び登記適格
(一) 野本治平ほか二名代理人は、武田登記のなされた地所については埋立権が設定されただけであつてまだ官による所有権の設定、付与がなかつたから右登記はその適格を欠く旨主張するが、武田の譲り受けた権利が単なる埋立権でなく官によつて払い下げられた本件地所に対する排他的総括支配権で、自由に譲渡し得るものであつたことは既に述べたところで明らかであるから、右主張はその前提においてすでに理由がなく、また武田登記は不特定区域についての登記又は無権利者によつてなされた登記であるとの同人等代理人の各主張の理由のないことについても、すでに判示したところから明らかであろう。
(二) 野本治平ほか二名代理人は、武田登記はその登記した地所はその登記の当時海面であつたから登記適格を欠き無効の登記であると主張する。
ところで、本件係争地は武田登記中、番外一三番(後の一五九二番)寄洲七〇町五反八畝一〇歩として登記された地所に含まれた区域であることは当事者間に争いがないのであるから、番外一三番の地所に限つて武田登記がなされた当時の状況を検討するに、明治五年の払下げ時以来、陸地と称しうる状況となつたことが当事者間に争いのない内務省登記のなされる直前までの間に、右番外一三番の地所について陸地と称するのに足りる埋立がなされた形跡はなく、かつ、成立に争いのない乙第四〇号証の一、二、同第四一号証の一ないし七、同第五一号証の二ないし四によれば、明治二九年当時、武田忠臣において不老貝培養試験中の箇所で堤防を築けば直ちに耕地にすることが容易な地所ではあつたが、明治三七年当時、なお海水の常時浸入する地所であつたことは武田忠臣自身の作成した文書上明らかであるから、武田登記がなされた明治三三年当時においても、前記海陸分界の基準にしたがえば、なお未だ陸地と称しうる場所であつたといい難く、むしろ海水の常時浸入する地所であつたというべきである。
しかしながら、すでに詳細に判示したように明治五年八月、荒蕪不毛地払下げ規則によつてなされた本件払下げの対象物は特定された払下げ地所に対する国がそれまで有したところの、現在の意味における所有権と全く同一実質を備える耕他的総括支配権であり、右の支配権を武田忠臣は前に述べたような経過により転々取得したものであるから、そのうち、のちの番外一三番に該当する地所が海水の常時浸入する地所であつたとしても、これに対し武田忠臣の取得した排他的総括支配権は、明治三一年七月民法(明治二九年法律第八九号)が施行されるとともに民法上の土地所有権に当然に推移したものといわなければならない(明治三一年法律第一一号民法施行法第三六条参照)。すなわち、
民法に「土地」というのも法律上の概念であつて、人力による排他的総括支配の可能な地表の特定の一部であれば「土地」というのに妨げがなく、前記番外一三番の地所のように海水が常時侵入する海水下にある地表の一部であつても、これを殊更に土地の概念から排斥し、土地の概念をいわゆる陸地と同義に解すべき理由は存しないからである。
さらに、これを既に掲示した荒蕪不毛地払下げ規則及び明治八年二月七日内務省達乙第一三号以降の水面埋立を含む土地開墾に関する法制を見るに、
明治一三年三月四日内務省地理局通知において「水面埋立願ニ付調査上心得」として、例えば
一、水面埋立ノ事ハ許可ヲ得テ工業竣成ノ上該地所ヲ無代価ニテ下与スベキモノトス
一、埋立期限中若シ其工業ヲ中止スルカ或ハ廃棄スルニ於テハ其時限り埋立許可ノ効ハ消滅スルモノトス但此場合アルトキハ其旨当省へ報告スヘシ
一、水面埋立望人弐人以上アリテ入札払ノ時ト雖モ此心得書ニ照準スヘシ其落札ノ価額ハ予定ノモノトシ工業竣成ノ上之ヲ徴収シ実際払下ヲナスヘシ故ニ当省ハ工業竣成ノ上払下ノ積ヲ以テ其埋立ノミヲ許可スルモノトス(十五年三月九日追加)
等と取扱基準を布達し(羽田村村民等に明治一三年一〇月本件土地附近について、次で明治一六年に本件土地を含む場所について埋立許可が与えられたのは、右地理局通知に準拠したものと思われることは、前記第一の七の末尾の説明によつて明らかであろう。)、
明治一八年一二月三日内務省甲号達甲第三六号は専ら河川に関してではあるが
「官有ノ川敷溝敷寄洲川沿地等ハ自今払下……ヲ為スコトヲ許サス……」とし、
明治二三年一〇月二〇日内務省訓令第三六号公有水面埋立及使用免許取扱方は
第一条 官ニ属スル公有水面ヲ埋立テンコトヲ出願スル者アルトキハ関係市町村会ノ意見ヲ聞キ然後技術者ヲシテ調査セシメ第二条以下ニ規定シタル命令書ヲ下付シテ之ヲ免許ス可シ
第四条 埋立成功ノ後其地所ノ道路溝渠物揚場等公共ノ用ニ供スヘシ分ハ無償ニテ官有トナス可シ其他ハ出願人ノ所有ニ定ムルコトヲ得
前項官有ニ帰スヘキ地区ト出願人ノ所有トス可キ地区トハ予メ命令書並ニ図面ニ明記ス可シ
第五条 大土工ニハ埋立方法書ノ外精密ナル設計書ト図面ヲ造ラシメ之ヲ命令書ニ附属ス可シ本条ノ場合ニ於テハ埋立ノ区域ヲ数区ニ分チ著手及成功ノ期限ヲ異ニシ残工事ノ成功ニ妨ゲナク且公益ニ害ナキ限りハ其成功スル毎ニ出願人ノ所有ニ定ムルコトヲ得
第六条 公有水面ヲ変シテ出願人ノ所有トナシタル後公害アルコトヲ発見スルトキハ時価ヲ以テ買収スルカ又ハ収用スルニ非サレハ回復スルコトヲ得ス
とし、
同年一一月二五日勅令第二七六号官有地取扱規則は
第一一条 官ニ属スル公有地及公有水面ハ其公用ヲ廃シタルニアラサレハ売払譲与交換又ハ貸付スルコトヲ得ス但公衆ノ妨害トナラサル限リハ公用ニ供シタル侭有料又ハ無料ニテ特ニ其使用ヲ許スコトヲ得
第一二条 官ニ属スル公有水面ヲ埋立テ民有地ト為サンコトヲ請フモノアルトキハ公衆ノ妨害トナラサル部分ニ限リ之ヲ許スコトヲ得
第一三条 官ニ属スル私有水面ノ売払譲与交換貸付及使用ハ木令ニ定ムル土地ノ規定ニ準拠スヘシ
第一四条 随意ノ契約ニ依リ官ニ属スル土地又ハ水面ノ売払譲与交換又ハ有料貸付有料使用ヲ為サントスルトキハ地方長官其評価ヲ為サシムヘシ……<省略>……
とし、
公有水面埋立法(大正一〇年四月九日法律第五七号)は
第一条「本法ニ於テ公有水面ト称スルハ河、海、湖、沼其ノ他ノ公共ノ用ニ供スル水流又ハ水面ニシテ国ノ所有ニ属スルモノヲ謂ヒ埋立ト称スルハ公有水面ノ埋立ヲ謂フ……」
第二二条「埋立ノ免許ヲ受ケタル者ハ埋立ニ関スル工事竣功シタルトキハ遅滞ナク地方長官ニ竣功認可ヲ申請スヘシ」
第二四条「第二二条ノ竣功認可アリタルトキハ埋立ノ免許ヲ受ケタル者ハ其ノ竣功認可ノ日ニ於テ埋立地ノ所有権ヲ取得ス……」
としているところからすると、
明治一三年の地理局通知以後、公有水面埋立に関する手続はようやく整備されるとともに、国の政策上、今日においては海水面のまま私人に払い下げることは普通行われなくなつたとともに、必要の場合も単にこれを埋立てる権利を私人に免許し、海水面は依然、公有水面として公共の用に供され、竣功認可を条件にその公用を廃止し、免許を受けた者に埋立地についての私法上の所有権を取得させるに止まることとなされたため、海水の常時侵入するような地所に対する私人の土地所有権の存在は稀有のこととなつているけれども、現行公有水面埋立法の前身をなす前記官有地取扱規則においてはなお、国が公用を廃するときは海水面のまま私人に売払いできるものとしていたのであり
さらに、
明治七年一一月七日太政官布告第一二〇号地所名称区別改定が官有地第三種として「山岳丘陵林藪原野河海湖沼池沢……其他民有地ニアラサルモノ」を掲げ、これ等は「地券ヲ発セス地租ヲ課セス区入費ヲ賦セサルヲ法トス」としていたところ、既に掲示したところではあるが、
明治一〇年一月二〇日太政官布告第八号民有荒地処分規則第四条は、
「川成海成湖水成等ノ荒地ニシテ地主持続クヘキ望アルモノハ拾年迄ノ年期ヲ定メ無代価ノ券状ヲ付与スヘシ………」
とし、第五条は
「右年期明ニ至リ原形ニ復セサルモノハ又拾年以内ノ年期ヲ継キ猶依然タルモノハ付与スル処ノ券状ヲ還納セシメ荒地ノ名称ヲ除去シ全ク川海湖地即チ官有ニ帰スルモノトス……」
とし、明治一七年三月一五日太政官布告第七号地租条例第二四条は
「川成、海成、湖水成ニシテ免租年期明ニ至リ原形ニ復シ難キモノハ更ニ二十年以内免租継年期ヲ許可ス其年期明ニ至リ尚ホ原地目ニ復セス他ノ地目ニ変セサルモノハ川、海、湖、ニ帰スルモノトス」
とし、昭和六年法律第二八号地租法の第五五条は
「荒地ニ付テハ納税義務者ノ申請ニ依リ荒地ト為リタル年及其ノ翌年ヨリ十五年内ノ荒地免租年期ヲ許可ス。前項ノ年期満了スルモ尚荒地ノ形状ヲ存スルモノニ付テハ更ニ十五年内ノ年期延長ヲ許可スルコトヲ得。海、湖又ハ河川ノ状況ト為リタル荒地ニ付テハ前項ノ延長年期ハ二十年内トス。其ノ年期満了スルモ尚海、湖又ハ河川ノ状況ニ在ルモノハ本法ノ適用ニ付テハ海、湖又ハ河川ト為リタルモノト看做ス」
として、いるところからすれば、海水下の地所についても免租期間を設け、海水下になつていることをもつて直ちにこれを官(国)の所有に帰属させることはせず、なお一定期間中、私人の土地所有権を認めていることがわかる。
したがつて、前記した海陸の分界を標準とした場合におよそ海面と称すべきこととなる地所はすべて私権の対象となりえないという絶対の法理はなく、その私権が民法施行前において排他的総括支配権であつたならば、民法施行法第三六条によつて、その海面のままで土地所有権に移行したものというべきであつて、民法上の「土地」の概念が法律上の概念であることを否定し、前記したような状況にある本件地所を土地でないとすることが誤りであることは明らかであろう。
そうだとすると、武田忠臣において明治二五年取得した本件地所に対する排他的総括支配権を民法施行後である明治三三年にいたり土地所有権としてした保存登記は、その海水の常時侵入する地所の地目を寄洲と表示し、翌明治三四年雑種地と変更表示していたことに問題があつたとしても、それはもはや単なる登記簿上の地目の表示の適否に関することであつて登記の効力自体に影響なく、右の保存登記をしたことにより、右地所についても第三者に対抗できる土地所有権を取得したものであり、その時点において、他にこれについて権利を主張しうる者は存在しえなくなつたわけである。
しかも明治三九年、内務省登記がなされる直前において、右地所が陸地と称しうべき状況にあつたことは当事者間に争いがないから、その時までに前記の地目の表示自体も正しく実体を表示するにいたり、この点の瑕疵もその時までには治ゆされたのである。
従つていずれの理由からにせよ武田登記が無効の登記であるとの前記主張は採用できない。
第四、武田忠臣から飛島文吉にいたる所有権移転経過
よつてその後の一五九二番の土地の権利移転を見るに、成立に争いのない甲第二一号証の九の三ないし七の土地登記簿謄本によれば、武田忠臣は一五九二番の土地を明治四一年四月一七日、同番の一地積五三町六反四畝二二歩、同番の二地積一七町とに分筆し、同月二四日には、同番の二を合名会社羽田組に譲渡し、同会社は明治四二年三月六日、これを京浜電気鉄道株式会社に譲渡したこと、同人は明治四四年六月二日、一五九二番の一を更に同番の一地積三二町九反七畝二三歩、同番の三地積一八町九反二畝三歩及び同番の四地積一町七反四畝二六歩と分筆したことが認められる。
次に、証人築比地仲助、同稲沢清起智、同田口明、同長谷川吉三郎、同多勢準一及び、同奥山喜美の各証言並びにこれらの証言を綜合し全部真正に成立したと認められる甲第九三、第九四号証、同第九五号証の一ないし六、同第九六ないし第一〇五号証、同第一〇六号証の一、二、同第一〇七号証の一ないし四及び同第一〇八号証の一ないし三によれば、右一五九二番の三はその後、大正一四年頃までには分筆されて同番の三地積一三町四反二畝三歩、同番の五地積三町歩、同番の六地積五反歩、同番の七地積一町三反二畝歩及び同番の八地積六反八畝歩に分筆されていたこと、その頃、田口精爾、石黒七三郎等は、これら一五九二番の土地(すでに京浜電気鉄道の所有で完全な陸地に造成されていた同番の二を除く)を取得して当時一部は低地となつて海水の侵入にまかせていた部分に盛土して完全な用地に造成し、他に転売して利益を得ようと計画し、当時の各地積の所有者から単独で、或いは共同出資により順次買得し、また出資者の資金の都合により、各出資者間においても所有権の譲渡が行われたが、当時、下阪源太郎が所有していた一五九二番の五の所有権のみは遂に取得できなかつたこと、この間の権利移転経過は別表第四、のとおりであること、大正一五年六月二一日、田口、石黒の両名は代表注文者として、土建業者、飛島文吉と右買得土地の盛土請負契約を締結したこと、その契約によれば、右買得土地の公簿上の面積は五〇町六反四畝二二歩、即ち一五万一九四二坪のところ、その実測総面積は一七万一八四五坪三合一勺であつたこと、契約締結と同時に、田口等は右取得の土地全部の所有権を飛島に移転する仮登記手続をし、盛土完成後一カ年を経過しても田口等が飛島にその費用を支払えないときはこれらの土地を飛島に代物弁済することとし、その際の所有権移転の本登記手続のための委任状その他の必要書類も同時に同人に交付することとなつていたこと、飛島の右工事施行に際しては、同人は下阪源太郎所有の一五九二番の五の土地も田口等の土地と同時に工事を請負つたこと、その間、昭和二年四月には、田口等のうち長谷川吉三郎、奥山源太郎、多勢慶輔、多勢準一、多勢多助、長谷川平五郎及び石黒七三郎の七名は京浜電気鉄道から二四〇坪の土地を買得し右工事施行区域に編入していること及び田口等全員は工事完成の上は、完成土地五〇〇〇坪を渡辺了武、森嘉三郎の両名に無償譲渡する約定をしていたこと、右工事は昭和三年初めに完成したが、当局の査定によると、完成土地坪数は右の二四〇坪を含め、下阪源太郎所有の九〇〇〇坪を除き五六町九反四畝二二歩即ち一七万八四二坪となつたこと、従つて、各出資者はこれらの土地を買得するに当つて投資した買得資金の割合に応じた持分所有権を右の完成土地に対し有するにいたつたこと、しかるに右出資者等は飛島に対し、遂に工事費用を支払うことができず、前記約定に従い、昭和四年頃、右一七万八四二坪の土地は全て飛島の所有に帰したこと、当時工事完成した一五九二番の一、三ないし八の土地は、海老取川に接する西側、海に接する北及び東側にコンクリートによる護岸を構築した一帯の土地であつたことがそれぞれ認められ、これに反する証拠はない。
第五、国の本件一六万坪の土地購入
一、逓信省告示第一七一〇号の告示された昭和六年八月二一日以後、昭和二〇年の終戦時までの間、逓信省が別紙付属図面のうち<A><B><C><D><E><F><G><H><I><J><K><A>の各点を順次連結する線で囲まれた実測約一六万坪の土地を東京飛行場用地として使用し管理して来たことは当事者間に争いないが、方式及び趣旨により公務員が職務上作成したものと認められるので真正の公文書と推定すべき甲第二五号証の一の二(国有財産台帳)、同第四三号証の一(土地台帳謄本)同第八九号証の三五、三六(逓信省経理局営繕課計理係保管の東京飛行場関係文書)、証人樋口恒蔵の証言により真正に成立したと認める甲第二一号証の四の一四(土地登記簿謄本)、成立に争いのない甲第二五号証の五の一ないし四(昭和四年度国有財産増減報告書)によれば、右東京飛行場用地は、逓信省が飛島文吉から昭和四年一二月二八日、代金二〇一万六〇〇〇円で買受け、昭和五年一月一七日、所有権移転登記を了した東京府荏原郡羽田町大字鈴木新田字江戸見崎北の方一五九二番の一地積五三町三反三畝一〇歩即ち一六万坪にはかならず、逓信省によつて遅くとも同日頃から飛行場に使用するための諸整備工事が開始され、以後、前記告示がなされるまでの間も引き続き占有管理されていたものであることが認められる。
ところで、右の争いのない事実及び認定の事実に前に認定した飛島文吉取得の土地の経歴、同人が右土地を取得するにいたつた経過、その結果同人が単独所有権者となつた事実及び同人が埋立完成した土地の地形と成立に争いのない甲第六七号証の一一の一及び前掲甲第八九号証の三五にそれぞれ添付の図面に見られる東京飛行場用地の地形の相似性を考え併せると、飛島は右土地を取得した機会に、下阪源太郎所有の一五九二番の五の土地九〇〇〇坪の所有権もその頃取得し、登記簿上の表示面積と著しく相異するにいたつたこれらの埋立土地約一八万坪のうちから、逓信省に譲渡することに話し合いができた北寄りの三方をコンクリートの護岸工事を施した一六万坪を登記簿上一五九二番の一に綜合整理し、その上でこれを逓信省に売却したものと認定できるのであり、逓信省は武田登記中一五九二番の土地と同一性を有する土地の一部を、ここに取得するにいたつたことが認められる。
二、野本治平ほか二名代理人は国の東京飛行場用地購入の事実を争うが、その理由とする第一点は、決算報告書に右用地購入の事実が記載されていず、国が飛島文吉に支払つたという代金二〇一万六〇〇〇円について、国庫から支出された形跡が発見できないということにある。
昭和二年度から昭和六年度までの逓信省所管航空路設置費の年度別決算額は別紙照会事項添付の別表のとおりであり、昭和二年度から昭和四年度までの逓信省所管経費決算報告書中、航空路設置費予算の翌年度繰越事由については、それぞれ別紙照会事項添付の別紙第一ないし第三のとおりの繰越事由説明が記載されていることは当事者間に争いないところ、右争いのない事実によれば、昭和四年度及び昭和五年度の逓信省所管航空路設置費は到底、逓信省の東京飛行場用地買収費の支出にたえうる予算構成でないことは明らかである。
しかし、前掲甲第二五号証の五の一ないし四の昭和四年度逓信省所管一般会計所属国有財産増減報告書に明瞭に、東京飛行場用地一六万坪を二〇一万六〇〇〇円で購入した旨の記載がなされているところからすると、右買収費の支出がいかなる款項目から支出されたかは今日不明であるとしても、この不明な事実を把えて遂に国会の決算を経てないと結論することは因難であり、むしろ、国有財産増減報告という国有財産会計における決算手続の第一段階が履践されている事実に着目し、右増減報告とともに右買収費支出についても会計検査院の検査を経、国会に提出されて決算承認を得たものと推認するのが相当であり、この点の主張は採用できない。
三、次に、否認理由の第二点として、甲第二五号証の二の国有財産台帳は、その作成時期、沿革欄の記載、所在地の記載、筆跡、地番の記載、数量欄の記載、用語の問題、編綴方式等に幾多の疑問があり、真正の公文書と解しえないと主張する。
証人渡部保三郎の証言及び同証言によつて真正に成立したと認める甲第一〇九号証の一及び二並びに証人佐久間義一の証言によれば、逓信省経理局に本省用としての国有財産総括簿、航空局に国有財産台帳がそれぞれ備え付けてあつたところ、昭和一五年頃、航空局庁舎が落雷で焼失した際、右台帳もともに焼失したので、航空局の事務員であつた渡部保三郎ほか一名は他局の台帳様式を真似た用紙を持参して逓信省経理局にある総括簿の中から航空局関係分をこれに書き写し、この書き写して来たものに基いて、更に航空局用の正式台帳に記入し復製したこと、この当初、経理局で総括簿に基づいて書き写したものが甲第一〇九号証の一、二であり、これに基いて作成されたものが甲第二五号証の二の現存の国有財産台帳であること、その復製作業に当つては、航空局の記入例に従い、例えば総括簿において沿革欄に記載のあつた事項についても、その事項の性質によつては備考欄に移して記載したりして、必ずしも機械的な謄写作業をしたものではないこと、甲第一〇九号証の二の第一頁及び甲第二五号証の一の一ないし六の記入作業は渡部保三郎がしたものであることが認められる。
そこで、右の帳簿上渡部保三郎の記入分について筆跡が同一であることは当然であるが、甲第二五号証の三の二の昭和二二年三月三一日付の記載事項とも同一筆跡であるとの主張は、これを検するに肯定できない。また甲第一〇九号証の二の第一頁と甲第二五号証の一の二の記載を対照すると、経理局備付けの総括簿には時の経過に従つた記載があつたところ、これを航空局の記載例に従つて謄写する際、多少の混乱があり、誤記を生じたものであることが明瞭である。また所在地欄の記載も同様、総括簿には「羽田江戸見町」とあつたところを台帳に転記するに当つて「江戸見町」と誤写したものであることが明瞭である。ところで、東京飛行場用地の所在は、昭和五年当時は、まだ東京府荏原郡羽田町大字鈴木新田字江戸見崎北ノ方一五九二番の一と表示されていたことは、甲第八九号証の三五及び前出逓信省告示昭和六年八月二二日第一七一〇号から明らかであり、成立に争いのない甲第六七号証の七及び一〇によれば、右が東京市蒲田区羽田江戸見町一五九二番の一と変更されたのは昭和七年当時のことであつたと推測される。従つて総括簿に昭和五年当時からの記載がなされていながら、行政区画の名称だけは昭和七年当時のものを表示してあるということは一見不合理であるが、これは恐らく、昭和七年の行政区画の名称変更に伴い所在地の表示を訂正したもので渡部保三郎はこの訂正されたものを書き写して来たものか、或いは謄写の際に総括簿において旧名称のままであつたものを、新しく再製することになつた台帳に新しい所在表示をするため、同人が現在の所在地名称をもつて旧名称に替えたものと考えられ、さほど奇怪なことと疑うほどのことではない。
野本治平ほか二名代理人は渡部証人の証言自体の信用性に疑いを向けているが、その根拠とするところは、渡部証人は昭和一八年四月二一日逓信省を退職している者であるから、昭和一八年五月以降の分も記載してある甲第一〇九号証の二を作成できるはずがないということにあるようであるが、同証人は当審において甲第一〇九号証の二の第一頁だけについて全部同証人が記載したと証言したのであり、右第一頁には昭和一八年以降の事項についての記載はないのであるから、第二頁以下の記載を引用して同証人の証言の信用力を攻撃するのは当らない。
甲第一〇九号証の二の全体についていえば、一部、同証人の筆跡と違うもののあることは同証人の証言するところでさえある。
次に台帳記載の用語についてゞあるが、旧国有財産法施行時においても、国有財産の「増」の記載様式として「購入」の用語を使用したことは、前出昭和四年度国有財産増減報告書(甲第二五号証の五の一ないし四)の記載例及び成立に争いのない甲第二五号証の一三の一ないし四によつて明白であり、本件台帳に「購入」と記載してあつても不都合はない。
次に、地番の記載が本件飛行場用地のみならず、その余の土地についても一様に「一五九二番の一」と表示されているというのであるが、本件台帳の記載は旧国有財産施行規則別表「国有財産整理種目表」に適合したものであるから、右の批難も当らない。
次に数量欄の記載即ち一五九二番の土地の地積に対する疑問であるが、武田忠臣のした一五九二番の地積七〇町六反四畝二二歩は現在、土地台帳上別表第三のとおりとなつている。別表第三のうち一五九二番の二九、三〇はそれぞれ同番の一九、二〇と面積及び所有者が同一であるから重複したものと解される。従つて、これを差引くときは一五九二番の土地台帳上の総地積は二三万四七二坪七合五勺となる。
ところで、前に認定した、飛島取得の土地面積に当時京浜電気鉄道所有の五万一〇〇〇坪を合算するときは二三万八四二坪となり、土地台帳上の地積とほゞ一致することが認められる。
ところで、右一五九二番の土地の中には民有地を含むのであるから、国有財産台帳記載の一五九二番の土地の地積がこれと一致しないのは当然であり、また未登記の土地が存する以上登記簿上の地積合計が土地台帳上の地積合計に一致しないのも当然であり国有財産台帳上の地積の数量が登記簿、土地台帳に対比して特に信用できないとされる点はない。次に台帳の備付け時期についてであるが、逓信省としては、東京飛行場用地について所有権取得登記をした昭和五年一月一七日、これが国有財産としての管理のため本件台帳を備え付けるにいたつたのは当然のことであり、飛行場として現実の使用が開始された日から備え付けるべきものではない。また立川町所在の東京飛行場が軍用飛行場を使用したもので、その所管を異にしたものであることは逓信省告示昭和四年四月一日第九七八号自体から明らかで、本件台帳の沿革欄に記載すべき事柄でもないから、この点の疑いも理由がない。
次に、本件台帳の編綴方式であるが、本件台帳が戦後採用のバインダー方式によつていないことが明らかであり、その他の点に疑問のないことは前述のとおりであるから、それ以上の詮索は無用と考えられる。
以上のとおり、本件国有財産台帳には何ら合理的な疑点は存しないから、これを真正な公文書と認むべきものである。
四、野本治平ほか二名代理人の否認理由の第三点は、甲第二一号証の四の一四土地登記簿謄本の写に対する不信に由来している。
しかしながら、武田忠臣が昭和三三年一〇月一八日した番外一三番寄洲七〇町五反八畝一〇歩の保存登記が、その後、一五九二番雑種地七〇町六反四畝二二歩に変更されたことは当事者間に争いがなく、その後、一五九二番の土地は分筆を重ね、所有者も変更したこと、昭和四年頃にはその一部一六万坪が一五九二番の一地積五三町三反三畝一〇歩と飛島文吉により合筆されたこと、及び逓信省が同人から右一六万坪を買受け、昭和五年一月一七日、国有財産台帳に登載するに至つている事実は既に述べたとおりで、右写しの記載即ち表題部一番及び二番並びに甲区欄の一番及び一七番の記載は右の経過事実に符合するところであるから、真正な登記簿が存在し、これを裁判所書記が認証文言にあるとおり正写し、これを安藤宇一郎弁護士が立証に関係ある部分だけ抄録したものと考えるのが相当である。裁判所書記の謄本認証文言中に「但シ抹消ニ係ラサル登記ノミヲ謄写ス」とありながら、既に抹消された表題部一番及び二番が記載されてある理由は、後に述べるとおり、この証拠による立証趣旨からしてこの抹消部分だけが必要であつたが、さりとて抹消部分全てを含む全部謄本としたのでは余りにも立証に不必要な記載が多かつたため、安藤弁護士において原則として抹消部分を除外し、必要な部分については抹消部分を謄写してもらうという便法に出たものと考えられる。
即ち、証人樋口恒蔵の証言によつて真正に成立したと認められる甲第二一号証の一ないし三、同第二一号証の四の一ないし一三によれば、原告武田太郎、被告折橋芳郎ほか一二名間の東京地方裁判所昭和二年(ワ)第五三号土地所有権確認登記抹消請求事件において、武田忠臣の相続人武田太郎は原告として折橋芳郎ほか一二名に対し、内務省登記中、一六〇五番ないし一六〇七番に該当する土地が武田太郎の所有であることの確認を求めたところ、右事件の被告代理人安藤宇一郎弁護士は、武田太郎の前主武田忠臣がすでに武田登記を了した区域と一六〇五番ないし一六〇七番の区域は相異すると主張し、その立証に供するため、武田登記の登記簿謄本を右事件で提出したものであることが認められるから、内務省登記一六〇八番、一六〇九番に関係する番外一三番即ち後の一五九二番の如きは全く右事件に関係がなかつたばかりか、既に東京地方裁判所明治四二年(ワ)第六一〇号事件において一六〇八番及び一六〇九番の登記をもつて不正のものとする判決が存していた区域であるから、番外一三番に関する限りたゞ武田登記の既存事実を証明するだけのために提出の必要をみたに過ぎなかつたと推測されること、しかるに前出甲第二一号証の九の三ないし七及び前に認定した大正末期から昭和初期における土地経歴から窺われるように、右事件においてこの最も必要の少い番外一三番は、武田登記中、最も復雑多岐な分合筆と所有者の変遷、地上権その他の権利の設定がなされた土地であるから、同弁護士においてこれを全て写すことの煩を避け、これを省略したと推測できるのである。
その結果、右写しのみによつては昭和五年一月一七日受付をもつてなされた昭和四年一二月二八日売買による逓信省の所有権取得の登記は曽ての一五九二番から分筆されたいかなる地番の土地についてなされたか一見明瞭ではないが、このような巧まずして生じた瑕疵の存することが、かえつて前記の推測を裏付ける一証左ともなるとともに前記甲第二一号証の四の一ないし一三と対照すれば、甲第二一号証の四の一四は分筆前の番外一三番すなわち一五九二番の土地の登記、したがつて、それが分筆されても一五九二番の一に関する登記に関するもので同番の二以下の分筆登記に関するものでないことも推察されるのである。右甲第二一号証の四の一四がおよそ、何らかのためにする意図で、登記簿謄本に全く基かずに作成された写しであることは、前に述べた事件の性質及びこれが同事件の被告代理人から提出されている事実から到底想像できないところである。
五、野本治平ほか二名代理人の否認理由の第四点は甲第四三号証の一土地台帳の存在は記載に対する疑問である。
まず、その存在についてであるが、本件用地購入のように民有地を国が取得した場合は、民有土地の台帳は除租の手続をするだけの取り扱いであつた(昭和一〇年八月一日東京税務監督局長訓令「地租事務規程」参照)から本件用地について土地台帳が存在すること自体は何ら不思議ではない。
次に、右の土地台帳が戦災により燃失したので戦時中、非常のため、所在地、地番、地積、所有者だけを土地台帳から書きとり、その余の権利関係については一切省略した疎開用台帳に基いて再製した土地台帳が果して適法の土地台帳といえるかという疑問であるが、土地台帳は職権で作成することができるから、右のような状況下に、右のような資料に基いて再製したものは適式の土地台帳であるということができると解する。
次に、本件土地台帳上、おびたゞしい分筆を国がしたことと地積の増加に対する疑問についてであるが、地積増加の経緯については既に述べたところであり、国が分筆をした証拠はないから、右の疑問も理由がない。
そして他に、国の東京飛行場用地購入の事実を左右するに足る証拠はない。
第六、所有権確認と登記抹消手続を求める国の請求について
以上によつて、国が本件一六万坪の土地の所有者であることは明らかとなつたところ、野本治平ほか二名が国の右土地に対する所有権を否定し抗争することは同人等の認めるところであるから、同人等との間で、右土地が国の所有であることの確認を求める国の請求は正当として認容すべきである。
この場合、国の一五九二番の一について現になされている登記がたとえ正規の手続によつてなされたものでないとしても、野本治平ほか二名は以上のとおり右土地について所有権を有せず、その他何らかの権利を有することの主張立証のない本件では国のための右登記の効力を攻撃する意味はない。(右登記手続の欠点が遡つて国の右土地購入の事実を否定する根拠とならぬことはもちろんである。)。
ところで国は、本件一六万坪の土地上に一六〇八番及び一六〇九番の登記が存するとして同人等に対し、一六〇八番及び一六〇九番の登記に由来する一六〇八番及び一六〇九番の各一、四、五及び六の登記の全部の抹消を請求の趣旨記載のとおり求めている。一六〇八番及び一六〇九番の各一、四及び五の登記(地積合計五三町三反三畝一〇歩)が一五九二番の一の土地上に存することは野本治平ほか二名の認めるところであるから、国の請求は右の各登記の抹消を求める限度で認容すべきものであるが、一六〇八番及び一六〇九番の各六の登記が一五九二番の一の土地上に存することを認めるにたる証拠はないから、右各登記の抹消を求める請求部分は失当として棄却する。
野本治平ほか二名代理人は、国は折橋芳郎、田中三四郎に対してした国自身の所有権付与行為の効力を否定することは許されないと主張するが、右行為の当時、本件係争部分が国の所有でなかつたこと前記のとおりであり、所有しない土地の所有権を付与することのできないこと当然であるから、右主張は採用しない。
また同代理人は、国が内務省登記中一六〇五番ないし一六〇七番と表示される土地を近時において買収しながら、本件において一六〇八番及び一六〇九番の登記が何ら実体を有しないと主張することは矛盾した態度であると非難する。
しかし、一五九二番以外の武田登記の土地と一六〇五番ないし一六〇七番の土地と同一或いは重複していると認めるに足る証拠は存しない。
却つて、前出甲第二一号証の三、成立に争いのない甲第一三号証の一ないし六、同第一八号証の一、二及び乙第三八号証の一ないし四並びに当裁判所か真正に成立したと認める甲第二一号証の四の一七、及び同号証の一九の三により従来前記武田登記の土地及び内務省登記の土地に関連して争われた各種の訴訟に提出されて、その都度当事者間に成立上争のなかつたところの明治二二年一月一五日東京府知事代理東京府属岡村端渡、渡辺量から東京控訴院に提出された明治五年払下区域実測図の写しであると認められる甲第二一号証の四の一八の図面と、成立に争いのない乙第六四号証の三及び甲第一六号証の七の図面及び成立に争いのない甲第一六号証の五によつて内務省が地元民代表に下付した開墾成功地の実測図面であること明らかで右同様成立に争いのない甲第一六号証の六の図面とをそれぞれ対照するときは、武田登記にかかる本件土地区域は内務省登記中一六〇八番及び一六〇九番の区域と重複(このことについては当事者間に争いないことではあるが)するけれども内務省登記中一六〇五番ないし一六〇七番にあたる区域はもともと武田登記の区域とは重複しないとさえ考えられるのである。
してみると、武田登記区域と重複しない内務登記の区域内にある一六〇五番ないし一六〇七番の土地を国が近時買収した事実があつたからといつて、そのことが直ちに国が内務省登記にかかる本件一六〇八番及び一六〇九番の正当性を否認することと矛盾する行為と推断するわけにはいかないのである。
従つて、右の非難は当らない。
第七、野本治平及び江田重蔵の反訴請求について、
以上のとおり、武田忠臣のした番外一三番、後の一五九二番の登記は実体を備えた有効なものであるから、同人は以後、何人に対しても番外一三番後の一五九二番の土地の所有権を主張しうるものであり、その後、無権利者である内務省によつて同一土地についてなされた一六〇八番及び一六〇九番の登記は実体を欠くことも以上のとおりであるから、折橋芳郎及び田中三四郎の両名が国から所有権移転の意思表示を受け、その旨の登記を経ていても、所有権を取得するに由なく、同人等から順次、所有権移転の意思表示を受け、かつ、その登記を経た者もまた、所有権を取得するはずがない。
してみれば、野本治平及び江田重蔵も所有権を取得するはずがなく、ただ単に、何らの実体的権利を伴わない一六〇八番及び一六〇九番に由来する同両番の各一、四、五及び六の土地について単に登記上名義人であるにとどまる。(しかも同両番の各六についてはその所在、実面積をさえ知るべき資料もない)から、同両番の各一、四、五及び六の土地について同人等に所有権の存することを前提として国に対しその確認を求め、右両番の一、四及び五の土地と一五九二番の一の土地とが同一であることを前提として一五九二番の一の登記の抹消を求める反訴請求は全部失当として棄却すべきものである。なお、国の既判力に関する見解は当裁判所は採らない。
(国の野本治平に対する不当利得返還請求について)
第一、国が野本治平との間に昭和二五年三月三〇日付で、東京国際空港用地の一部を同人所有の一六〇八番及び一六〇九番合計地積二〇万五二九一坪として昭和二〇年九月二一日にさかのぼつて賃貸借契約を締結したこと、右契約目的地中には本件一六万坪の土地が含まれていること、以来国は同人に対し、別紙一覧表記載のとおりの賃料を同表記載の日に支払つたこと及び同表のうち朱書した分は同人から国が返還を受けた金額及びそれを国が受領した日であることはいずれも当事者間に争いがない。
第二、ところで、本件一六万坪の土地が国の所有であること、同一六万坪に当らない一六〇八番及び一六〇九番の各六の土地についても野本治平は所有権を有しないことは既に述べたところから明らかである。したがつて、前記賃貸借においては、目的たる土地が野本治平の所有であることが契約の内容として表示されたものであり、国が同人の所有でないことを知つていたならば、契約を締結しなかつたであろうことは、容易に推認されるところであるから、右賃貸借契約締結について国には、要素の錯誤があつたものというべきである。この場合一六〇八番、一六〇九番の各六に当る土地がどこに所在するか、それが国の所有であるか否かを知るべき資料はないが、そのことは、同各土地も野本治平の所有土地であるとした点で右要素の錯誤があつたことに影響はない。
そして、右錯誤が結局は、地番を異にする二重の登記の存在したことに起因したことも前に述べ来たつたところから容易に首肯できるから、爾余の点について判断するまでもなく、右契約を締結するについて国に重大な過失があつたということはできない。
以上により賃貸借は無効であるから、野本治平は法律上の原因なく賃料相当の利得をしたものであり、また国は賃料相当の損害を被つたものというべきである。
第三、他方、野本治平が賃料受領の当初から、悪意であつたことを認めるにたる証拠はない。
しかし、今、すでに受領した賃料について国から返還請求を受け、その利得が何ら法律上の理由なきものであつたことが明らかとなつた以上、訴訟送達の日の翌日である昭和三二年四月三日から、右受領額に年五分の割合による遅延利息を付して国に返還すべき義務があることとなる。
第四、よつて、国の請求は右の限度において認容すべきであり、その余の部分は失当として棄却する。
(藤原美蔵、石川正勝及び岩崎政義に対する国の請求について)
右三名が適式の呼出しを受けながら本件口頭弁論期日に出頭しなかつたことは既に述べたとおりであるから、同人等は、国の同人等に対する請求原因事実を全部自白したものとみなすべく、それによると、同人等に対する国の請求はいずれもこれを正当とすべきである。
(訴訟費用等)
よつて、訴訟費用の負担については民事訴訟法第八九条、第九二条、第九三条を適用し、仮執行の宣言については同法第一九六条を適用して主文のとおり判決する。
(裁判官 畔上英治 岩村弘雄 井野三郎)
第一物件目録
東京都大田区羽田江戸見町一五九二番の一
逓信省用地 五三町三反三畝一〇歩(一六万坪)
付属図面のうち<A><B><C><D><E><F><G><H><I><J><K><A>の各点を順次連結する線で囲まれた実測一五万九、九九九坪九合九勺三才の土地
第二物件目録
第一、東京都大田区羽田江戸見町一六〇八番の一
雑種地 二〇町一反五畝一歩
第二、同所一六〇八番の四
雑種地 三町七反四畝二七歩
第三、同所一六〇八番の五
雑種地 一町六反九歩
第四、 同所一六〇八番の六
雑種地 七町八反一畝一三歩
(以上計三三町三反二畝六歩)
第五、 同所一六〇九番の一
雑種地 一九町三反七畝五歩
第六、 同所一六〇九番の四
雑種地 三町一反一八歩
第七、 同所一六〇九番の五
雑種地 五町三反四畝二四歩
第八、 同所一六〇九番の六
雑種地 七町二反八畝八歩
(以上計三五町一反二五歩)
東京飛行場敷地実測図<省略>
一覧表<省略>
別表第一 一、五九二番の権利移転経過図<省略>
別表第二 一、六〇八番の権利移転経過図<省略>
別表第三、第四<省略>